100歳大往生 新藤兼人監督 独学からスタート「お金集めるのが大変でねえ」

[ 2012年5月31日 07:13 ]

29日に100歳で死去した新藤兼人監督

 「原爆の子」「裸の島」「午後の遺言状」など数々の名作を残した映画監督・脚本家で文化勲章受章者の新藤兼人(しんどう・かねと、本名兼登=かねと)さんが29日午前9時24分、老衰のため東京都港区赤坂の自宅で100歳で死去した。

 独学でシナリオを学び、脚本家としてキャリアをスタートさせた新藤監督。1950年に吉村公三郎監督らとともに松竹を退社し、独立プロの先駆けとなった「近代映画協会」を設立。翌年に「愛妻物語」で監督デビューし、49本のメガホン作を発表した。

 とにかく映画の話となると少年のような顔になった。「お金を集めるのが大変でねえ。食えない時もしばしばあり、これで終わりかと思った時もありましたよ」と、独立プロゆえの苦労話も悲そう感どころか面白おかしく語る人だった。

 乙羽さんと94年に一緒に建てた墓が京都にある。そこには「天」という字が書かれている。生前、監督は「天という字は二人と書く」と照れくさそうに話していたが、そこに夫婦水入らずで眠ることになる。

続きを表示

この記事のフォト

2012年5月31日のニュース