新藤兼人監督が死去 100歳…「原爆の子」「午後の遺言状」

[ 2012年5月30日 15:43 ]

新藤兼人監督=2012年2月撮影

 「原爆の子」「午後の遺言状」などの作品で知られる映画監督・脚本家で、文化勲章受章者の新藤兼人(しんどう・かねと、本名兼登=かねと)さんが29日午前9時24分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。100歳。広島市出身。葬儀・告別式は6月3日午前11時半から港区芝公園4の7の35、増上寺光摂殿で。喪主は次男次郎(じろう)氏。

 1934年に新興キネマ京都撮影所に入社し、映画人としてのキャリアをスタート。溝口健二監督の美術助手などをしながらシナリオを学び、脚本家として活躍した。50年に吉村公三郎監督らと独立プロ「近代映画協会」を設立、翌年「愛妻物語」で監督デビューした。

 広島の原爆の悲劇を描いた52年の「原爆の子」では各国の映画賞を受賞。以後もモスクワ映画祭グランプリに輝いた「裸の島」(60年)、妻の故乙羽信子さんが最後に出演した「午後の遺言状」(95年)など多くの名作を発表した。昨年公開された「一枚のハガキ」が最後の監督作となった。2002年に文化勲章を受章。

 4月22日に100歳の誕生日を迎えたばかり。同日のパーティーには車いす姿で登場し、「どうもありがとうございます。これが最後の言葉。さようなら」と冗談交じりにあいさつしていた。

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