[ 2010年3月6日 06:00 ]

ミーメ(左)役のヴォルフガング・シュミットとクリスティアン・フランツはバイロイト音楽祭においては新旧ジークフリート

 その恐れを知らぬジークフリートは、スーパーマンのTシャツにオーバーオールという出で立ち。ベッドにはぬいぐるみが置いてあるし、感情に任せてすぐ物を投げる。汚い言葉も平気で使います。ですが、ジークフリートのように振舞う、やんちゃな男の子は、決して珍しくはないと思います。学校教育を受けていないので、身体は大きくなっていても、精神年齢は3~4歳くらいのままなのです。ウォーナーはジークフリートが自分の力を持て余している様子を、小さな男の子のふるまいとして描きました。最近、話題になった人物で言えば、引退した横綱の朝青龍がジークフリートに似ているようにも思えます。それどころか、私自身の若かりし頃にとった向こう見ずな行動にすら当てはまるようにも映りました。ジークフリートは、良く言えば前へ突き進む力、悪く言えば猪突猛進の象徴です。その誰もが持ち合わせている心理が、人格化されているだけなのではないでしょうか。それはヴォータンの指導者や親としての悩み、ブリュンヒルデの乙女心や正義感にも同じことが言えます。もちろん、アルベリヒやミーメのようなコンプレックスや嫉妬なども、誰しもが持っている感情です。  

 ウォーナーはこうしたことを言わんとすべく、ミーメの家を60年代の米国にあるような住宅とし、ナイトヘーレの洞窟の傍をモーテルに設定したのだと思います。ワーグナーが描いたのは神話ではなく、どこにでもありふれた話だということなのでしょう。その半面、ミーメの家の外へ出るとそこは宇宙。目の前で繰り広げられている物語は、いつの時代においても、どの次元においても、人間の普遍的な真理であるということを言いたかったのかもしれません。
 さらに舞台設定が、60年代の米国となっていたことは、イラク戦争開戦直前であったこと、そして日本においてのヴァルハルは 同盟国アメリカであるとのメッセージが含まれていたように感じられました。だから、東京での上演なのに60年代の米国のようなテイストにしたのだと思います。イラク戦争開戦直前であったプレミエから、7年が経過。正直言って賞味期限ギリギリと感じるような要素もいくつかありました。しかし、米国型大量生産、大量消費が支える経済システムが崩壊した今、なお考えさせられることが多いのも、また事実だったのです。

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2010年3月6日のニュース