[ 2010年3月6日 06:00 ]

昨年のバイロイト音楽祭でも、ジークフリートを演じたクリスティアン・フランツ

 コンシェルジェは、ジークムントとジークリンデ、ジークフリートとブリュンヒルデの二重唱はそれぞれ、音楽的な観点でも違うと言います。

 “ワルキューレ”におけるジークムントとジークリンデは、どんなに愛を語り合っても2人の声が重なることは決してありません。これは言葉が聞き取りにくくなることを嫌ったワーグナーが意図的にそうしたとの説が一般的です。その一方で“ジークフリート”や“神々の黄昏”の中では、ジークフリートとブリュンヒルデの声が重なる場面が複数回ある。作曲された時期に10年以上の開きがあることがワーグナーの考え方に何らかの変化をもたらしたことは想像できるものの、私はそれだけではないと思う。つまり、2組のカップルにおいて同じ愛という言葉であってもその本質が大きく異っていることを重唱の有無によって象徴的に差別化して見せた(聴かせた)と解釈することが出来るからです」。
 これまで述べて来たように、オペラという芸術において心理描写に優れた作品というのは、主に男性の心理を基に描かれていることが多いのではないでしょうか。例えば、ヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」第3幕の冒頭での、スペイン国王フィリッポ2世の独唱。多くの男性が共感することでしょう。オペラの作曲、台本、原案、全てにおいて、男性が手がけていることがほとんどです。女性である私にとっては、登場人物のセリフの1つ1つに、心当たりを覚えて突き刺さってくるような作品に出会ったのは、この「ジークフリート」が初めてでした。ワーグナーは女性の心理描写において、女流作家に匹敵する腕前の持ち主といえるでしょう。
なぜ男性であるワーグナーに、ここまで女性の気持ちが理解できたのでしょうか。夜な夜な、妻コジマ(フランツ・リストの娘)と台本について語り明かしたのではないか。教養と才能溢れるコジマは、まさにワーグナーにとってはブリュンヒルデのような存在であり、創作活動を後押ししてくれる女性であったのかもしれない。そう考えれば合点も行くというもの。しかし、コンシェルジェは、ワーグナーがジークフリートの台本を書いたのは、コジマに出会う前だという事実を教えてくれました。それならば、ワーグナーが作っていたのはプロットの状態で、音楽とともに後で歌詞を書いたのではないか、と食い下がる私。コンシェルジェは、首を横に振るのです。
 「ワーグナーが“ニーベルングの指環”の基である“ニーベルンゲン神話”の草案を書き始めたのは彼が35歳だった1848年10月のこと。翌月には“神々の黄昏”の前身となる“ジークフリートの死”の台本執筆に着手しています。この頃、コジマとは出会っていないばかりか、彼女はまだ10歳の少女でした。さらに紆余曲折の末“ニーベルングの指環”という現在の形での台本が完成したのは1852年の年末で、翌年初めにそれをプライベート出版し朗読会を開催しています。そしてコジマと初めて対面したのはその年の秋、パリでリストと会った際のことだったといいます。この時、コジマは15歳。ですから“リング”の台本執筆過程にコジマが関与した事実はまったくなかっただけではなく、そのほかの女性が何らかのアドバイスを与えていた形跡も資料の上からは確認されていません」とコンシェルジェ。
ことほどさようにワーグナーとは、常人の想像を遥かに超えた存在なのです。しかし、彼は人間心理において深い理解力を持ちながらも、実人生では失敗と成功を繰り返した“俗物”的に人間だったとか。何ゆえそのような波乱万丈の生涯を歩んだのでしょうか。

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2010年3月6日のニュース