[ 2010年3月6日 06:00 ]

第2幕の幕切れでジークフリートを導く小鳥(安井陽子)が突然、全裸の女性に変身する

 もう1つ、ワーグナーならではというセリフの例を挙げたいと思います。「鎧を剣でまっ二つにし、乙女の体から剥ぎ取った。裸身も同然の哀れな女性になった」。

ブリュンヒルデは、ジークフリートへの愛を告白しておきながらも、次の瞬間には嘆き始めるのです。これは処女喪失における女心などを歌った場面だと私には感じられました。こんなオペラが、他にあるのでしょうか。女性は恋愛するにあたって、男性が自分に持つ興味の源流がいかなる類いのものであるかを、注意深く観察しているのです。ジークフリートとブリュンヒルデの場合、男性側が語った愛というのは、性的な興味にしかすぎないのではないかと疑ってしまいます。というのも、ジークフリートは父と母の存在すらも知らず、愛情を注がれることなく育った少年です。「愛する」「与える」という感情をまだ持てるはずがないと思うのです。ブリュンヒルデに抱いた感情は「足りないものを手に入れる」というような感覚なのではないでしょうか。第2幕の幕切れで、小鳥が突然後ろを向いて着ぐるみを脱ぎ、全裸の女性に姿を変え観客をドキッとさせるシーンがあります。ウォーナーの意図は、ジークフリートの性への目覚めの暗示であると私には感じられました。
前作「ワルキューレ」で結ばれるジークリンデとジークムントの間では、兄妹であるということへのためらいが繰り返されます。こちらのカップルが抱いている感情こそ「愛」と言えるのではないでしょうか。彼らはときめくのと同時に、初めて理解者に出会った喜びや安堵感を持ち合せていました。ブリュンヒルデとジークフリートも血縁者です。しかし、そのことは一切触れられることはありません。ジークリンデとジークムントの近親相姦は、神の契約のもとでは許されるものではありませんでした。ブリュンヒルデは、そう観念した父ヴォータンによって、彼らのもとに送り込まれました。
とはいえ彼女にとって、ジークフリートは甥っ子です。「さらばヴァルハルの光輝に満ちた世界よ!」幕切れで、ブリュンヒルデがヴァルハルの落城を願ったのは、しがらみのない1人の男性と女性でいたいという、思いであったのかもしれません。

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2010年3月6日のニュース