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アリ氏逝く 20世紀象徴する英雄 差別と闘い、鮮やかな復活劇も

[ 2016年6月4日 19:15 ]

現役時代のムハマド・アリ氏 1974年撮影 (AP)

 ボクシングの元世界ヘビー級王者、ムハマド・アリ氏が3日、アリゾナ州フェニックスの病院で死去。家族が明かしたもので74歳だった。30年近く難病のパーキンソン病を抱えていた同氏は呼吸不全で前週から入院しており、ついに体調は元には戻らなかった。葬儀は故郷ケンタッキー州ルイビルで4日に行われるが、ルイビルのグレグ・フィッシャー市長(58)は市庁舎に半旗を掲げることを指示。「彼はここで育ち、ハードワークの末に世界的な人物となった。ボクサーとして偉大であるが、彼の“勝利”はむしろリングの外でずっと続いていた」と市を象徴する英雄の死を悼んだ。

 危篤の段階でコメントを求められたドン・キング・プロモーター(84)は「悲しい日だ。彼は本当の友人だった。絶対に死なない」と語っていたが、数々のビッグファイトを共にしたその友人は他界。全61戦中、26試合に付き添ったプロモーターのボブ・アラム氏(84)も「史上最強のファイター。しかし世界への貢献度を考えればそれは二の次かもしれない」と多くのジャンルでアクティブに活動したアリ氏の業績を高く評価していた。

 ムハマド・アリ氏は1942年1月17日にカシアス・マーセラス・クレイとしてルイビルで誕生。12歳の時、新品の自転車を盗まれた時に「盗んだやつをたたきのめしてやる」と“復しゅう”を成就するためにボクシング人生がスタート。当時親しかった警察官のジョー・マーティン氏が所属していたボクシング・ジムに連れていき、体重40キロの少年がサンドバッグを殴り始めた。

 アマチュア生活は6年。その集大成が1960年ローマ五輪で、ライトヘビー級で優勝して金メダルを故郷に持ち帰った。しかし当時はまだ黒人への人種差別が色濃く残っていた時代。カシアス少年は米国内での大会の際にはホテルへの宿泊を拒否され、車の中で寝る日々だった。五輪の金メダリストになったのに、地元の商工会議所は賞状を1枚贈っただけ。歓迎式典は夕食会を含めて何も行わなかった。揚げ句に市内のレストランに友人と一緒に入った時に店の主人が料理を作ることを拒絶。バイクを乗り回していた白人のグループと店の外で乱闘となり、その“心の傷”はトラウマとなった。

 自伝ではこのあと金メダルを市内を流れるオハイオ川に投げ捨てたと記されているが、その後アリ氏は「どこかに置き忘れた」と訂正。結果的にローマ五輪の金メダルの所在は今も不明だ。

 そしてプロに転向。1964年には試合前のオッズで“8倍”という圧倒的に不利とされながら王者ソニー・リストンを破ってヘビー級王座を獲得。人種差別への抗議の意を示す中で「ブラック・ムスリム」に入信し、名前をムハマド・アリに変えた。しかし67年にはベトナム戦争への兵役を拒否してタイトルとボクシングのライセンスをはく奪され、3年半に渡ってリングから離れた。

 リングに戻ってきたのは1970年10月26日。アトランタでのジェリー・コーリー戦が復帰戦となった。ジョージ・フォアマン(67)をKOで下した74年の“キンシャサの奇跡”、そして“スリラー・イン・マニラ”と呼ばれたフィリピンでの死闘を含め、通算3回対戦したジョー・フレイジャー(11年11月7日、67歳で死去)との激闘など伝説となったファイトは多数。1978年にはレオン・スピンクス(62)を下して史上初となる3度目の王座獲得を達成し、ラリー・ホームズ(66)に敗れて81年に引退するまでリング上でのドラマは何度も世界を熱狂させた。

 「蝶のように舞いハチのように刺す」と形容されるフットワークを使ってのボクシング・スタイルはパンチだけに頼っていた当時のヘビー級のボクシングにとっては画期的なスタイルで、常に相手を見下す“ビッグマウス”も加わって20世紀を象徴するスポーツ界のスターとなった。

 通算成績は56勝(37KO)5敗。防衛回数は19回に及んでいる。手にしたファイトマネーは当時としては破格の5700万ドル。あれだけ大きなことを口にしながら、一度も金銭に不満を述べたことはないとされている。

 1976年には来日してアントニオ猪木(73)との異種格闘技で注目を集めるなど日本にも接点のあったボクサー。しかし頭部に浴びたパンチは計2万9000発で、それがパーキンソン病の発病を招いたとされている。

 1996年のアトランタ五輪では聖火の最終点灯者。2012年ロンドン五輪でも開会式に姿を見せた。結婚は4回。2人目の妻との間に子どもが4人、3人目の妻との間には格闘家となったレイラ・アリ(38)を含めて2人、4人目の妻ロニーさんとの間には養子が1人いる。そのロニーさんとともに晩年は各地を訪問。「ボクシングは自分の人生の最初のミッション。そして自分は偉大な宣教師になる」と宣言して第二の人生を送っていた。

 1990年にはイラクに足を踏み入れてサダム・フセイン大統領(当時)と面会。米国人捕虜の解放を申し入れ、その甲斐あって15人がアリ氏とともに母国に帰ってきた。その中の1人、ハリー・ブリルエドワーズ氏は「ムハマド・アリ氏がスポーツ界のスーパースターであることは知っていた。でもあの時は彼が天使に見えた」と述懐。リング外の功績はボクシングの戦績とともに永く語り継がれるだろう。

 キンシャサで打ちのめされたフォアマン氏は敗れてから35年が経過した2009年、アリ氏についてこう語っていた。「彼が最高のボクサーだとは思わない。しかし私が出会った中で最も偉大な人物であることは間違いないのだ」。

 最近のアリ氏はしゃべるどころか、歩くことができなかった。ビッグマウスはすでに30年近く陰を潜めていた。しかし蝶のように舞えずハチのように刺せなくとも娘の1人、ハナさんは「ずっと穏やかな日々を送っていました。気の毒だと思ったことは一度もありません」と語っている。史上最強のボクサーであり最良の伝道者。彼が歩んだ74年の人生は最後まで輝いていた。

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