山本浩二監督「我が道」特別版

第27回 勝負の3年目を襲った非情の病

[ 2013年2月24日 06:00 ]

91年4月14日、2番手で登板した津田恒実(左)は9球で降板。これが最後の登板となった

 監督1年目の1989年(平元)、開幕の阪神戦(広島)こそ継投に失敗して痛恨の逆転負けを食らったが、2戦目から5連勝と勢いに乗った。1つ負けて今度は10連勝。4月は15勝3敗と快調に滑り出した。

 打順は固定できなかったが、投手陣は先発が北別府学、大野豊、川口和久(現巨人投手総合コーチ)、長冨浩志、白武佳久…。中継ぎの紀藤真琴、川端順、清川栄治を挟んで抑えの津田恒実につなぐ。悪くなかった。

 この年は73勝51敗6分け。貯金22は優勝してもおかしくない数字だったが、巨人に9ゲーム差をつけられての2位に終わった。巨人の監督はNHKで一緒に解説させてもらった藤田元司さん。復帰1年目の独走だった。

 翌90年も2位ながら66勝64敗2分け。貯金はわずか2しかなかった。この年は津田が右肩やひざの故障で4試合しか登板できず、5月から新人の佐々岡真司を抑えに回した。

 またも巨人の大独走。終盤は翌シーズンをにらんで佐々岡は大野と代えて先発に戻した。

 打線ではロッテに移籍した高橋慶彦の抜けたショートに2年目の野村謙二郎(現広島監督)を固定し、1番を打たせた。

 チームが生まれ変わる時期。新人の前田智徳、将来の4番候補として捕手から内野手にコンバートした江藤智(現巨人打撃コーチ)を1軍に上げたのもこの年だった。

 戦力を底上げして迎えた91年。勝負の3年目はいきなり深刻な事態に見舞われる。開幕6戦目、4月14日の巨人戦(広島)だった。

 1―0で迎えた8回、故障からの復活を期す津田を2番手として投入したところ川相昌弘(現巨人ヘッドコーチ)右前打、フィル・ブラッドリー死球、原辰徳(現巨人監督)左前打であっさり同点とされ、わずか9球で大野に代えた。大野も岡崎郁(現巨人2軍監督)に右前打を許して逆転負けを喫した。

 試合後、しばらくして投手コーチの池谷公二郎が監督室にやってきた。「津田が“2軍に落としてくれ”と言ってるんですが…」。私は即座に返した。

 「バカなことを言うな。1回打たれたくらいで…。“頑張れ”言うといてくれ」

 津田はキャンプのときからときどき頭が痛いと言っていたらしいが、風邪くらいにしか思っていなかった。まさか、野球選手があんな病気に…。

 翌日、広島市内の広大病院で検査を受けたら脳にかなり大きな腫瘍(しゅよう)があることが判明した。しかも悪性で手術できないところにあるという。わが耳を疑った。

 本人には知らせるわけにはいかない。マスコミには「水頭症」と発表した。ちょうど阪神のランディ・バースの長男ザクリー君が脳の病気、水頭症を克服したばかりだった。

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