山本浩二監督「我が道」特別版

第25回 日本一逃してサヨナラ胴上げ

[ 2013年2月23日 06:00 ]

86年10月27日、日本シリーズ第8戦終了後、ナインから胴上げされ涙が止まらず

 西武との日本シリーズ第1戦は、9回に小早川毅彦と私の連続ホームランで追いついて引き分けに持ち込み、第2戦から3連勝。日本一は目前だった。

 1986年(昭61)の日本シリーズ。第5戦は第1戦と同じく北別府学、東尾修両エースの投手戦となった。1―1で迎えた9回。先頭打者として打席に入った私は中前打で出塁した。

 長嶋清幸のバントで二進。続くキヌ(衣笠祥雄)の中前打は当たりがよすぎてホームに還れなかった。1死一、三塁となって代走のスペシャリスト、今井譲二と交代。打席には何でもできる木下富雄が入った。

 1点入れば勝てる。いつスクイズが出るか、サインばかり見ていた。だが、出ないまま木下が打って三ゴロ。今井が飛び出し、三本間で挟殺された。

 そのまま勝ち越せず、第1戦に続く延長戦に突入。12回、代わったばかりの津田恒実が投手の工藤公康に右翼線へサヨナラヒットを許し、これで流れが変わった。

 私は第4戦あたりから体中が痛くなり、40歳の誕生日、10月25日の第6戦から2試合連続ノーヒット。試合はともに1―3で敗れ、3連敗で逆王手をかけられた。

 史上初となった第8戦は3回に投手の金石昭人の2ランで先制しながら6回に秋山幸二(現ソフトバンク監督)の2ランで同点。宙返りでホームインされた。

 私は7回1死から残る力を振り絞ってレフトへ二塁打を放ったが、ホームは遠かった。逆に8回、ジョージ・ブコビッチの適時二塁打で西武に勝ち越し点を許す。最後の打席は9回1死、工藤の前に三ゴロに終わり、そのまま終戦。3連勝しながら…。今でも悔しい。

 表彰式が終わって食堂に全員集められ、阿南準郎監督がみんなに私の引退を伝えてくれた。シーズン終盤、阿南さんとキヌだけには気持ちを伝えていた。

 西田真二たちにうながされてグラウンドに出るとスタンドにはまだファンがいっぱい残っていた。仲間の手による胴上げ。涙が止まらなかった。輪の中には東尾の姿もあった。うれしかった。

 最後の年は126試合に出場して打率.276、27本塁打、78打点。今の時代ならまだまだ2、3年はやれたと思う。

 だが、当時は全試合に出てこそ4番という大前提があった。「行った」と思った打球がフェンス前で失速するようになり、持病の腰痛も悪化。もはやフル出場できる体ではない。40歳にもなるし、ここが潮時だと思った。

 すべてが終わり、入団1年目の監督で当時西武の管理部長を務めていた根本陸夫さんのところへあいさつに行くと「ウチに来ないか」と誘われた。「DHも代打もある。清原(和博)の教育係としてどうや」というのである。

 ありがたい話だったが、カープひと筋で歩んできたプロ野球人生。丁重にお断りした。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る