山本浩二監督「我が道」特別版

第22回 頭部死球に負けず2冠とMVP

[ 2013年2月20日 06:00 ]

80年7月15日のヤクルト戦で、頭部死球を受ける

 新神戸から乗った新幹線ひかり号が姫路の近くに差しかかったときだった。雑賀幸男マネジャーが手で「V」の形をつくって私たちが乗っている12号車のグリーン車に駆け込んできた。

 V2達成の知らせである。ユニホームを着ていなくても、どこで決まっても優勝はうれしい。車内は大盛り上がりした。

 初の日本一達成翌年の1980年(昭55)。カープは5月から首位の座を守り、マジック2で迎えた10月17日だった。

 デーゲームの阪神戦(甲子園)に6―3で勝ってマジック1。対象のヤクルトがナイターの中日戦(神宮)に1―4で敗れ、新幹線車中での優勝決定となった。

 セ・リーグ誕生31年目にして巨人以外の連覇は初めて。午後10時29分、広島駅に到着すると約5000人の市民が出迎えてくれた。凄い騒ぎでもみくちゃにされ、ネクタイピンがなくなった。

 このシーズンで忘れられないのは7月15日、2位ヤクルトとの3連戦初戦(神宮)だ。24本塁打、64打点はともにリーグトップで打率.327は3位。ヤクルトバッテリーは絶好調の私との勝負を避けた。第1打席から4打席連続四球。しかも外角ではなく内角に外してくる。2―1とカープの1点リードで迎えた9回、1死からキヌ(衣笠祥雄)の2ランで3点差とした直後の第5打席だった。

 代わったばかりの3番手・西井哲夫は一段と厳しい内角攻めをしてきた。私は山内一弘さんから教わった打法でボール2個くらい内側の球でも打ちにいった。足は開いてステップしても腰は開かない。左翼ポールからほんの数十センチという当たりもあった。

 フルカウントで迎えた6球目。こればかりは打つことも避けることもできなかった。投球は左側頭部を直撃。私は倒れ込んだ。そのすぐ横で乱闘劇。先発して7回まで投げた福士敬章が捕手の大矢明彦を蹴って退場になった。

 私は神宮球場近くの慶応病院に直行。エックス線や脳波の検査を受けたが、異常はなかった。翌日の再検査も問題なし。「1日だけ大事を取った方がいい」という医師の指示に従って夜の試合は9回の守備だけ出場した。

 静岡で行われた17日の3連戦最終戦はスタメン復帰し、第1打席はまたも四球。13日の大洋(現DeNA)戦最終打席から7打席連続四死球はセ・リーグタイ記録(当時)となった。

 この試合は結局、3打数2安打1打点、2四球。頭部死球の後遺症はなく、この年は44本塁打、112打点で2冠。初優勝した75年以来2度目のMVPに輝いた。

 前年に続いて近鉄との対戦となった日本シリーズはまたも第1、2戦を落としながら4勝3敗で2年連続日本一。私は2本塁打を放ったが、打率.231と胸を張れる活躍はできなかった。

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