山本浩二監督「我が道」特別版

第13回 改名で開運「浩司」から「浩二」へ

[ 2013年2月12日 06:00 ]

姓名判断を勧めた親友の内田(右)と、高3の時のツーショット

 カープに入団するとすぐ、幼稚園から一緒だった親友の内田美昭(よしあき)が中心となって「山本浩司ファンクラブ」をつくってくれた。この応援が革新的。次から次へと新しいスタイルを導入した。

 「コージ、コージ」と連呼するコールに始まり、トランペットを持ち込んで鳴り物応援の先駆けとなる「コンバットマーチ」。打席に入るとき応援歌を流したのも私が最初だった。

 新しくて熱い応援を受け、私の成績は少しずつではあるが、上向いていった。

 6年目の1974年(昭49)は127試合に出場して打率.275、28本塁打、74打点。3部門とも自己ベストをマークした。

 そのオフ、内田からこんな話を持ちかけられた。

 「わしの知り合いに姓名判断ができる人がおるんじゃけど、見てもらわんか?」

 勧められるまま見てもらうと、こう言われた。

 「山本浩司というのはいい名前ですが、字画の画数がちょっと…。同じ“こうじ”でも“浩”に“司”より“二”の方が勝負事に向いています」

 私は4人きょうだいの末っ子で三男ではあるが、それで運が開けるなら…。戸籍は「浩司」のままにして連盟への登録名を「浩二」に変えた。

 山本浩二になって初めて迎えた75年のシーズン。指揮を執ったのはジョー・ルーツだった。

 ルーツは広島が72年に米アリゾナ州トゥーソンで春季キャンプを張った際に面倒を見てくれたインディアンスのコーチで、74年に打撃コーチとしてカープに入団。3年連続最下位に終わったオフ、森永勝也さんに代わって監督に昇格した。

 70年秋にアリゾナ教育リーグに参加し、72年はトゥーソンでの春季キャンプに続いて秋はフロリダ・ブラデントンの教育リーグに参加。アメリカ式の練習には慣れていた。戸惑いはなかった。

 練習でルーツに一番教えてもらったのは集中力。打撃練習はメジャー式の7スイングで7本目を打ったら走る。これを6回り。打つ本数が少ないから、ひと振りひと振りに集中する。足りない分は居残って打つ。やらされる練習からやる練習へ。自主性を身に付ける意味でもプラスになった。

 ゲームでは「スイング・ハード(強く振れ)」。メジャーの教えが「1球で仕留める」を目標としていた私には合っていた。

 そしてルーツが持ち込んだのが日本球界にそれまでなかった情熱の赤。本当はユニホームそのものを赤にしたかったらしいが、経費の関係で帽子とヘルメットだけになったという。

 最初は戸惑ったが、勝ち始めると「赤ヘル」が売り物になっていった。しかし、全国に「赤ヘル旋風」が吹きまくるころ、ルーツの姿はなかった。

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