山本浩二監督「我が道」特別版

第12回 大逆風に押し戻された日本記録

[ 2013年2月11日 06:00 ]

75年の球宴第1戦で初回に2ランを打ち、出迎えを受ける。右端は与那嶺監督

 雨、また雨…。1972年(昭47)7月、私はプロ野球記録に王手をかけてから6日間も足止めを食らった。

 6日の中日戦(中日)第2打席から4安打を放ち、移動日を挟んだ8日の巨人戦(広島)で5打数5安打。9打席連続安打のセ・リーグ記録をつくり、54年に坂本文次郎さん(大映)がマークした10打席連続の日本記録(当時。現在は11)にあと1と迫っ

 ところが、梅雨の真っ直中。翌9日から雨が続き、やっと試合ができたのは梅雨のない北海道に遠征してから。15日の大洋(現DeNA)戦(函館)だった。

 この年は1番が63試合で一番多く、プレーボール直後の打席だった。1ストライク1ボールからの3球目。山下律夫さんの投球をとらえた瞬間、会心の手応え。行ったと思った。

 ところが、レフトに上がった打球は強い逆風に押し戻され、フェンスいっぱいで重松省三さんのグラブに収まった。まさか…。一塁を回ったところでヘルメットを地面に叩きつけた。

 1年目から球宴に出続けているブチ(田淵幸一)に対し、私は一度も選ばれていない。守備以外でやっと目立てると思ったら、長い水入りの揚げ句、大逆風に邪魔されたのである。

 だが、私の野球人生はこのあたりから徐々に風向きが変わり始めた。この年創設されたダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞。この賞は10年連続でいただくことになる。

 翌73年には監督推薦で球宴に初出場した。第1戦(神宮)は7番・センターで先発出場。最初の打席で三振し、4回の守りで南海(現ソフトバンク)の野村克也さんの意外に伸びた打球を下がりながら両手で捕りにいってバンザイしてしまった。

 次の打席で代打を送られ、第2戦(大阪)は出番なし。第3戦(平和台)は代打で左飛に終わった。自信があった守備でミスし、たったの2打席、ともに凡退。だが、うれしい記憶も残っている。

 コーチとして入っていた中日のウォーリー与那嶺要(よなみね・かなめ)監督がアドバイスしてくれた。

 「なあコージ、外野手はね。片手で捕るのと両手で捕るのと30センチは違う。あの打球は片手で捕らなきゃいかんよ」

 ありがたかった。

 初めてファン投票で選ばれた74年の球宴も8打数1安打と活躍はできなかったが、3試合とも先発出場。その年は中日が優勝し、巨人のV10を阻止した。

 そして与那嶺さんが全セの指揮を執った75年の球宴第1戦(甲子園)。3番に抜てきされてびっくりした。何とか2年前の恩と期待に応えたかった。

 私は初回太田幸司(近鉄)、2回は山田久志(阪急=現オリックス)からともに左翼席へ2打席連続ホームランを放った。

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