山本浩二監督「我が道」特別版

第5回 仕組まれていた?外野手転向

[ 2013年2月4日 06:00 ]

投手から外野手への転向を命じた松永怜一監督

 大学時代、投手としての公式戦出場は1試合しかない。1965年(昭40)6月4日、1年春の新人戦。忘れもしない東大球場の慶応戦だった。

 私は初回に1点を失いながら、4回を4安打で、失点はその1点にしのいだ。バッテリーを組んだのは、すでにリーグ戦デビューしているブチ(田淵幸一)だった。

 解せないのはサイン。いくら首を振ってもブチは指1本、真っすぐしか要求してこない。スピードにはけっこう自信があったが、真っすぐだけでは苦しい。マウンドへ呼んで問いつめた。

 「なんでストレートばっかりなんや」

 するとブチは申し訳なさそうに言った。

 「親父さんから真っすぐしか投げさせるなと言われてるんだ」

 松永怜一監督の指示だというのだ。ずっとのちに聞いた話だが、親父さんは4番のブチの前後を打てる打者を探していて私もその候補だった。だから早く投手をあきらめさせたかったらしい。

 だが、すぐ野手転向というわけではなく、先輩相手に打撃投手を務める日々が続いた。ある日、71年から77年まで監督を務める4年生の五明(ごみょう)公男さんの打球を右ひじに受けて投げられなくなった。

 大学はちょうど夏休み。広島に帰った。新幹線は新大阪までしか開通しておらず、大阪から先は山陽本線。なんのために毎日バッティングで投げてきたんだ…。自分だけ取り残される思いがした。
 なにもかも嫌になりかけたが、投げ出すわけにはいかない。気持ちを奮い立たせて東京へ戻り、投げられるようになるまで一塁を守ったりもした。

 そんなとき励みになったのが1年生の秋、新人監督の嶋谷肇さんのひと言だった。

 「阪神のスカウトがおまえに注目しているらしいぞ」

 ベンチにも入っていない私のどこに注目してくれているのか。よくわからなかったが、この言葉で力が湧(わ)いてきた。

 東京・目黒のアパートで一緒に暮らしていた次兄・尚(ひさし)の芝浦工大卒業を機に法政のグラウンドがある神奈川県川崎市中原区に引っ越し、合宿所に入れない通い組のトミ(富田勝)や桑原秀範とよく一緒にスイングをした。

 2年生春の新人練習。投手の打撃練習を終えると松永監督から「もう少し打て」と言われた。その後、正式に「外野をやれ」と通告され、特訓が始まった。サードのトミと外野の私に交互にノック。日が暮れてもボールに石灰をつけてノックは続いた。

 監督は東京・小岩の自宅から通ってくる。電車がストでもやってくれんかな。風邪ひいてくれんかな。本気でそう思った。

 だが、弱音は吐けない。トミも同じように鍛えられている。負けちゃいかん。その思いだけでボールに食らいついた。

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