山本浩二監督「我が道」特別版

第1回 旧広島市民球場は聖地だった

[ 2013年2月1日 06:00 ]

1987年の引退試合で、広島市民球場の外野スタンドに浮かびあがった「ありがとうコージ」の人文字。ナインに胴上げされる(写真は合成)

 私は1946年(昭21)10月25日、広島県佐伯郡(現広島市佐伯区)五日市町に生まれた。男3人女1人の4人きょうだいの末っ子。戦後生まれは私1人だった。

 父・武は元陸軍少佐。母・正江は祖父が米国に移民した関係からシアトル生まれで小学生のときに帰国した。家族は45年8月6日、広島市己斐(こい)町(現広島市西区己斐東)で被爆。たまたま建物の陰で爆風を避けられたが、私以外は全員原爆手帳を持っている。

 父は終戦後、上下水道の配管工事を請け負う「広島機管工業」という会社を経営。若いときはラグビーをやっていたらしいが、野球が好きでガーガーピーピーいう短波ラジオで中継を聴いていた。

 広島カープはプロ野球が2リーグ制になった50年に誕生。父によく当時の本拠地、観音新町の広島県総合グラウンド野球場(現コカ・コーラウエスト野球場)へ連れて行ってもらった。

 五日市から電車に乗って草津か古江まで行き、渡し船に乗って太田川放水路を渡る。たしか渡し船は5円だった。

 球団経営が苦しく、市民から寄付を募っていた時代。いくらか覚えていないが、父に渡されたお金を樽(たる)募金に入れたこともある。

 あこがれたのは53年松竹から移籍してきた小鶴誠さん。当時のシーズン最多本塁打51本の記録を持つホームランバッターだ。「和製ディマジオ」と呼ばれた打撃フォームをよくまねした。

 中国地方初のナイター施設設置球場、広島市民球場が開場したのは57年7月24日。私が小学5年生のときだった。

 こけら落としのナイター、広島―阪神戦はNHKテレビで中継された。解説者が「なんと申しましょうか…」でおなじみの小西得郎さんだったのを覚えている。

 試合は長谷川良平さん、備前喜夫さんの両エースがめった打ちに遭い、1―15で大負けした。

 中学生になると広島市内に出るたびに市民球場へ通った。プロレスを見たこともある。力道山対「鉄人」ルー・テーズ。空手チョップと岩石落としに興奮した。

 カープと一緒に育った私にとって市民球場は聖地だった。甲子園なんてとても考えられなかった広島県立廿日市(はつかいち)高校時代。県の大会で勝ち進み、市民球場で試合をするのが夢だった。

 そんな私がやがてカープの一員となり、熱い「コージ・コール」を浴びることになるとは…。つくづく幸せな男である。

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