下柳剛のシモネタ発見

合意寸前までいったあの球団、米国行きも 悩んだけれど結局は…

[ 2014年7月7日 05:30 ]

 みなさん、どうもです~! 下柳です。当コラムでも何度か紹介させてもらっとったけど、7月2日から『ボディ・ブレイン』が発売になりました。オレにとっては初めての書き下ろし。興味がある方は、良かったら読んでみてください。

 自分で言うのも何やけど選手時代は本当にいろんな経験をさせてもらってきたからね。座禅もしたし、断食もした。一度は日本ハムをクビになった男が、それから3年後には最多勝を取った。それは自分自身にとっても、まさかの出来事。しかも史上最年長というオマケまでついたからね。そういうどん底から這い上がった経験、プロセスを書くことで、何か読者のみなさんにとって生きる上でのヒントになれば、という思いで執筆させてもらうことになった。

 ちなみに、出版社の担当者の方はこんな風に、コメントを出してくれてます。

 『「最多勝は、座ってつかんだ」という下柳選手の意外な言葉から、この本の制作は始まりました。

 師である裏千家家元や、世界有数のメンタルトレーナーからの学びをもとに、自身の頭と身体で考え抜かれた、目からウロコの学び方が満載されています。

 激情家、野武士といった世間のイメージとは全く異なる、著者の意外すぎる素顔にまずは引き込まれると思いますが、それだけはありません。

 いわゆる身体知や直感についての考え方や、潜在能力を開花させる“ゾーン”について述べた記述は、他では知ることのできない情報ばかりで必見です。

 年齢のハンディをものともせず、どん底から最多勝を獲得した秘訣を公開した本書は、アスリートだけでなく、人生を変えたいと願う人にとってかならず役に立つことでしょう』

 先にも書いたように、日本ハムの最終年となった02年は、自分でも戦力外になることを覚悟していた。若返りたいという球団の方針も聞かされていたからね。

 そんな経緯もあったから、オレは日本ハムには頼らず自分で球団を探してくるつもりやった。なんせ、ハムの言うことを聞くのが嫌やったから(笑)。とりあえず、早う自由契約にしてくれ、とな。

 でも、当然ながら自由契約になるまでは表立って動くことはできない。で、そうこうしているうちに、ハムから通達があった。

 「阪神へトレードで行ってもらうから」

 もちろん、最初は断ったよ。

 「嫌です。オレは行きません」って。

 今ではすっかり気に入った関西の町並みも、当時のオレにとっては縁もゆかりもない土地やったからね。ましてや、ラガーのこともある。だから、最初は阪神に行く気なんて、さらさらなかったわけよ。

 とは言うものの、自由契約になってない以上は球団に従うしかない。「どうしたもんかな~」と考えているうちに、関東でお世話になっていた人がラガーを預かってくれるという。それだけやない。中には「シモ、阪神―巨人戦で投げているところを見せてくれ」という人もいた。

 時が経つにつれ、それもありかな! と思えるようになっていって。それに、あと1年でFA権を取れるという計算もあった。で、取ったらFAして関東へ戻ろう、と。

 実際、03年のオフにFA権を取って、横浜とは合意寸前までいった。横浜で住むマンションも決まったし、代理人とは移籍に関するコメントまで考えた。契約の条件も詳細は明かせないけど、阪神より良かったしね。

 で、明日発表します! というところで、また知り合いから連絡が入った。

 「シモ、ラガーの面倒はこっちで見るから、阪神に残れ」

 そこから冷静になって、もう一度、考えることにした。当時の戦力では横浜で優勝争いをするのは厳しい。阪神では運良く1年目から優勝できたけど、日本一には届かなかった。やり残したことがあるというかね…。それに最後は、やっぱり勝ちたかった。

 それで、最後の最後で阪神にお世話になることを決断した。もしも、ラガーの存在がなければ、横浜へ行ってたんやろうけどね。

 もう一つ、そのときはアメリカへ行く選択肢もあった。水面下でオファーもあったんやけど、すべてはウインターミーティングが終わってからになるという。そんな、後回しにされるぐらいなんやったらね…。ここだけの話し、スコット・ボラスとも代理人契約をかわしていたけど、結局、オレが海の向こうを渡ることはなかった。

 当時はいろいろと悩んだものやけど、一つ言えることは阪神に残留して本当に良かったということ。タイトル獲得、リーグ優勝2回をはじめ、いろいろと良い思いもさせてもらったし、ユニホームを脱いでからも仕事をさせてもらっている。唯一の心残りは、やっぱり日本一になれなかったことだけやね。

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