下柳剛のシモネタ発見

22年間のプロ生活 礎となったは新日鉄君津での3年間

[ 2014年1月6日 05:30 ]

 スポニチアネックス読者のみなさん、初めまして下柳剛です。この1月から「下柳剛のシモネタ発見」というコラムを執筆することになりました。僕自身の投手理論、野球観はもちろん、現役時代あるいは野球界の裏話など、いろんなテーマでこのコーナーを担当させてもらいます。どうぞ、よろしくお願いいたいします。

 というわけで、第1回は自己紹介から始めさせてもらいます。堅苦しいのは嫌なんで、ここからは少しカジュアルに。

 ダイエー、日本ハム、阪神、楽天の4球団で22年間の現役生活を過ごすことができたけど、その礎となったのは社会人・新日鉄君津(現新日鉄住金かずさマジック)での3年間やろうね。

 長崎・瓊浦高から八幡大(現九州国際大)へ進んだんやけど、1年で中退してね。その後、秋季キャンプ中だった大洋の入団テストを受けたんやけど、最終選考まで残ったのに結果は不合格やった。テストが終わった直後には球団の人からも良い感触が伝わってきたんやけど、後から「大学を中退してすぐにプロ入りはできない」ということになった。

 自分でもテストの手応えはあっただけに、不合格と分かった時の絶望感はもう…。「あ~、これでもう野球ができんくなる」とね。長崎へ帰ってバイクを乗り回したり、ほんまにフラフラ、フラフラしとった。昼間は瓊浦高校野球部の同級生の父ちゃんが経営しとった「上野鉄工所」でアルバイトさせてもらって。他の同級生も何人かいて、まさに駆け込み寺やったわ。

 でも、何て言うんかなぁ。日増しに野球ができひん寂しさが、わき上がってきてね。いま、思えば、本当に辛かった。そんな生活は半年ぐらい続いたんかな。あるとき、瓊浦の恩師・安野俊一監督のツテで、君津のテストを受けられることになった。

 忘れもせん。東京駅まで君津のマネジャーさんが迎えに来てくれて。総武線を経由して行くんやけど、船橋を過ぎた辺りから「な~んも、ないやん」って。内房線に揺られる頃には「なんじゃ~。もの凄い、田舎やな~」と。当時の君津は新日鉄以外、何もない街という印象やった。

 で、テストを受けるんやけど、3日目が終了した時点で監督に呼ばれた。「もう、帰っていいぞ。長崎帰って、荷物まとめて戻ってこい」。合格やと分かった瞬間は、ほんまに感激したね。「これで、もう1回、野球ができる!」。それこそ、長崎へは飛んで帰ったよ。野球のない半年間があったから、うれしくて、うれしくて、たまらんかった。

 それと同時に、君津の野球部に対しても、感謝の気持ちでいっぱいやった。「拾ってもらったからには、死にものぐるいでやるしかない」。そのとき、自分のでき得る最大限の努力を惜しまず、野球と向き合うことを誓ったね。

 新日鉄君津には1988年から3シーズンお世話になったんやけど、その間は1度も練習を休まんかった。長崎にも1度も帰ってない。盆も正月も練習、また練習。3年やってプロへ行けんかったら、野球はあきらめるつもりやったから。

 投げ込み、走り込みを徹底的にやっとった。全体練習が終わってからは、グラウンドの上にあるトレーニング場へ移動する。階段を上って行くんやけど、登り切ったところで倒れたことが何度もあった。貧血でね。血尿も、たびたび出とった。昼の12時から夜の9時まで。おかげで、試合で完投した後にブルペンで200球投げても、平気なぐらいやった。

 当時はあまり野球界では馴染みのなかったウエートトレーニングにも熱心やった。入ったときはひょろひょろやったけど、体つきがみるみる変わっていった。最後は総合格闘家も顔負けの、筋肉隆々ボディー。ムダな脂肪は一切なくて、トレーニングを紹介する本のモデルを任されるぐらいやったわ。折しも新日鉄釜石のラグビー部でトレーナーだった方が、君津へ転勤されたこともあってね。その方には先見の明があったというか、それほど知られていなかったインナーマッスルの強化も教わった。

 もちろん、仕事もしとったよ。関連子会社の太平工業という会社で、総務部に配属された。独身寮や社宅の管理業務で、出勤簿のチェックなんかもやっとったなぁ。基本的には午前中だけなんやけど、仕事が残ったときは練習終了後に会社へとんぼ返り。誰もおらんくなったオフィスで、黙々とデスクワークしたのも懐かしい思い出やね。

 それぐらい強い気持ちでプロ入りを目指しとったけど、実はドラフト指名されても行く気はなかった。入社3年目の1990年にも都市対抗へ出場したんやけど、初戦で日産自動車に敗退。その時点で君津は都市対抗で創部以来1度も勝てんままやった。先にも書いたけど、自分は君津に拾ってもらった身。あれだけプロへ行きたかったはずやのに、いつしか「全国で1勝してからプロへ行きたい」と考えるようになっとった。会社に対する恩返しというかね。

 だから、ドラフト前も「プロへは行きません」と宣言しとった。そんな状態やから、11月24日のドラフト当日も会社の先輩の結婚式へ行っとったぐらい。ちょっと余談になるけど、会場へ向かう電車の中でこんなこともあったわ。つり革持って、立っとったら前に座っているオジさんがスポーツ紙を読んどった。

 そうそう、それが、スポニチやったんやけど、1面には「ドラフト1位候補」がずらっと顔写真入りで並んどった。元木(上宮卒)や小池(亜大)が紹介されている中に、オレもあったわけ。そしたら、そのオジさんが途中からオレのことジロジロ見だしてね。「ん、この下柳という選手に似たやつだな」てな具合で。オジさんに見つめられて、オレもなんか変な感じやった。

 で、式が始まるんけど、その途中にダイエーから指名がかかった。そしたら司会の人が気を利かせてね。「え~、みなさん。ニュースです。会場におられる下柳さんが、ダイエーに指名されました」。それは、もう盛り上がったよ。どっちが主役か分からんぐらい。みんな酒も入ってるから「おい、サインくれ!」って行列できたりして。

 それでも、しばらくはプロへ行く気にはなれんかった。もちろん、行きたい気持ちはあったんやけど、オレの中では「まだ早い」と。「今年は行きません」と突っ張っとった。ドラフト前に行かない、と宣言してながら、4位指名で行くのもどうか、という気持ちもあったし。

 それがあるとき、野球部のみんなが飲み会を開いてくれた。先輩も後輩も監督も来てくれてね。そしたら、みんなが「シモ、プロへ行け」と口々に言ってくれて…。もちろん、最初は断っとったよ。でも、みんなも、なかなか折れてくれない。何時間ぐらい飲んだやろなぁ。最後はオレが、みんなに頭を下げた。

 「分かりました。ありがとうございます。プロへ行かせてください…」。もう、自然と涙があふれ出てね。みんなのオレを思ってくれる気持ちが伝わってきたし、すごくありがたかった。

 いま思えば、君津は製鉄会社やったから、高炉は1年中24時間休みなく動いてる。だから、オレも盆、正月関係なく、ずっと野球部の寮にいられた。普通の会社やったら、そうはいかなかったのかもしれない。

 ダイエーに入団が決まって自主トレまでのメニューを渡された。正直な感想は「え、これぐらいの練習でええの?」。キャンプ、シーズンに入ってからも、1度もキツイ練習だとは思わなかった。それも、これも、すべて君津での3年間があったから。当時のいろいろな出会いには今でも感謝しているし、今の自分があるのはあの頃のおかげです。

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