日めくりプロ野球 7月

【7月16日】1959年(昭34) “ポンちゃん”大下弘 ようやく1号「あと1本打てるかな」

[ 2010年7月1日 06:00 ]

 【西鉄12―2近鉄】かつて、青バットを振り回し空に虹をかけるようなアーチを描いて、戦後のすさんだ世の中に光をともした本塁打王は心底悩んでいた。もう1本も打てないんじゃないか…。そう思う日が何日も続いていた。
 その苦しさから解き放たれたのは開幕から73試合目だった。日生球場での近鉄―西鉄15回戦で西鉄の大下弘右翼手がシーズン1号本塁打を放った。

 7回、近鉄・山下登投手から打った一発は、振り抜いた瞬間にそれと分かる、右翼への当たり。とらえた、と思ってもフェンス前で打球がお辞儀をしてしまい、ファンや関係者からも「大下は衰えた」という言葉が聞かれるようになったが、それをかき消すかのような、全盛時をほうふつさせる打球だった。「真ん中高めの直球。手応え十分。久々だなこんなバッティングは」と上機嫌な大下。だが、その笑顔はどこか寂しそうだった。
 「あと1本か…。何とか今年中にはと思っているんだがね。打てるかな。つらいなあ」。あと1本で大下はプロ野球史上6人目の通算200号本塁打に到達する。1号アーチを放つまで夏までかかったことを思えば、本塁打キング3回のスラッガーも弱気にならざるを得ない。それくらい遠くへ飛ばすことに自信をなくしていた。
 豪放らい落、二日酔いで打撃練習せずに試合に臨み、いきなり本塁打を打ったなどいくつもの“伝説”がある大下をそこまで気弱にさせていたのは、脚のけがだった。
 西鉄が3年連続日本一となった前年58年のキャンプで大下は右足首を捻挫した。もともと、右足のかかとの軟骨除去手術をした後、状態は芳しくなかったが、その上捻挫したことで、右脚をかばうようにしてプレーを続けた。それが左脚に負担をかけ、ひざを痛めた。下半身に不安を抱えた大下のバッティングは上半身のバットコントロールだけで球を打つようになり、ヒットは出ても、戦後の焼け跡の中から復活したプロ野球の象徴であった大きな放物線を描いてスタンドに届く大下独特の本塁打は見られなくなった。
 心配していた大下が200号弾を放ったのは、それから半月後。8月1日、大阪球場での南海17回戦でこの年38勝4敗と驚異的な数字を残した2年目のエース、杉浦忠投手から3回に右中間へ打ち込んだ。「初球のシュート、ボール球だった。今の僕じゃ、杉浦に追い込まれたら打てないからね。少し高かったけど思い切り振った。詰まっていたし、まさかはいるなんて」。
ち 大下はさらにあと1本追加して201本塁打でこの年、現役を引退。本塁打こそ3本で終わったが、打率は3割3厘をマーク。技術的にはまだユニホームを脱ぐほどではなかったが脚が思うに任せなくなったことで天才打者は決断した。
 本塁打王と首位打者3度ずつ、MVPも獲得、そのほかにも各賞受賞は数え切れないほどあった大下だが、金銭には全く無頓着。1954年(昭29)にMVPを獲得し、賞品でもらったトヨタクラウンを1回も乗らないまま売却し、100万円の代金を同僚選手や裏方さん、果ては平和台球場のグラウンドキーパーまでに配ってしまうほど。引退時、年俸520万円だったが、借金は500万円あったという。
 この借金を清算するために引退し、60年3月1日に引退試合をしてその興行収入を返済に充てるというプランがまことしやかにささやかれたが、平和台での大毎とのオープン戦は前日からの雨もあって観衆は6000人にとどまった。100万円以上の“あがり”があったと、当時の新聞は伝えているが、その行方は…。
 スタンドにポンポン本塁打を打ち込むことでついたニックネーム“ポンちゃん”の最後の打席は中飛。花を持たせるべく甘い真ん中の球だったが、もうそこにはかつての“ポンちゃん”の姿はなかった。

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