日めくりプロ野球 7月

【7月29日】2008年(平20) 「4番はオレだ」球団史上初!村田修一、3年連続30本塁打

[ 2009年7月29日 06:00 ]

09年7月28日、阪神戦で通算200号本塁打を放った村田。今後どこまで記録が伸びるか注目される
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 【中日5-4横浜】左中間へ舞い上がった白球が漆黒の夜空に映えた。滞空時間の長い横浜・村田修一三塁手の一撃は豊橋市営球場の外野席に落下。4回に飛び出したシーズン30号本塁打は試合を振り出しに戻す同点弾となった。
 06年34本、07年は36本。着実に本数を増やし、08年は92試合目で自身最速の30本塁打に到達。3年連続の“大台”は球団史上初の快挙。リーグでも巨人アレックス・ラミレス外野手と並んで一番速かった。横浜の選手では、大洋時代の59年(昭34)、新人の桑田武三塁手以来、49年ぶりのリーグ最速30号だった。
 「30号は今年の目標だったので、行く前に打ててよかった」。チームがサヨナラ負けしたため、笑顔はなかったが、個人的には1つのハードルをクリアして次の目標に進める安堵感と自信がみなぎっていた。
 村田が口にした「行く前」とは、北京でのオリンピックのこと。野球の日本代表の一員に選ばれた村田は、星野ジャパンの4番候補として名前が挙がっていた。チームは最下位にあえいでいたが、村田には金メダルという大きな目標が目の前にあった。最速30号はモチベーションの高さが打たせたものでもあった。
 当たれば本塁打、ダメなら三振。外角へ変化球を投げておけば比較的楽に打ち取れるバッター--。入団から3年目までは、他球団の村田評はおおむねそんなところだった。
 ところが、打率を意識するようになり、力で飛ばすだけの打者ではなくなると、背番号25のバッティングは変貌を遂げた。打つポイントを後ろに置くことで変化球に対して見極めが良くなり、それを悠然と見送ることでカウントが打者有利となった。すると「甘い球が自然と来るようになった」(村田)。
 07年に初の本塁打王、さらに08年のシーズン後半には、グリップの位置を高くすることでさらに本塁打を量産。打率も初の3割を突破(3割2分3厘)し、46本塁打で2年連続のホームランキングを獲得。タイロン・ウッズ一塁手が持っていた球団記録の45本塁打を抜いて、球団最多本塁打にもその名を刻んだ。
 “日大のあぶさん”と呼ばれた東都大学リーグのスラッガーは、巨人入りが濃厚と見られていながら、1位並みの契約金・年俸での4位指名の打診に「金ならプロ入りした後に稼ぐ。一番高く評価してくれるところに行く」と、巨人を蹴って横浜入りした。
 1年目の寮生活時代から高級車で横浜スタジアムに乗り付けるなど、“やんちゃ”絡みのエピソードは数え切れないが、北京五輪、WBCと“プロ野球選手の顔”の仲間入りをしてからは、言動がすっかり大人になった。
 北京では直前に風邪をひいて入院したこともあり極度の不振に陥った。WBCでも3割を超える打率で4番の重責を全うしながら、肉離れでリタイア。公式戦でも個人としてもチームとしても出遅れた。
 スッキリしない状況が続く中で、村田は何を思っているのか。節目の200号本塁打を、後半戦のスタートとなった09年7月28日の阪神戦(甲子園)で放った。通算846試合目での到達は歴代単独18位のスピード。横浜では、田代富雄三塁手の925試合目を抜く最速記録になった。男・村田の新たな進化がここから始まる。
 

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