日めくりプロ野球 7月

【7月25日】1961年(昭36) 「仕方ねえからお前行け」 監督のひと言にキレた須藤豊

[ 2009年7月1日 06:00 ]

宇野監督と衝突したころの須藤(前列左)。チームメイトには「安打製造機」榎本喜八(前列右)や「シュート打ちの名人」山内一弘(後列右)ら名だたる猛者がいた
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 【大毎8-6東映】代打で右打席に入った24歳の内野手は、頭に血が上りバッティングどころではなかった。
初球のボール球を引っ掛けて三ゴロ。終盤の8回、5点のビハインドを追いつき、盛り上がる大毎(現ロッテ)ベンチをよそに凡打に終わった須藤豊内野手は、はらわたが煮えくり返っていた。ピンチヒッターで結果を出せなかったからではない。宇野光雄監督のひと言がどうしても許せなかったのだ。

 一挙5点を奪い、東映(現日本ハム)のエース、土橋正幸投手をKOした大毎は、投手が左腕の橋詰文雄に代わると、三塁コーチスボックスに立っていた宇野監督は三塁側ベンチに戻った。一度代打を告げた左の荒川博外野手にさらなる右の代打を出すためだった。
 ベンチの中を見渡し、橋詰にぶつける右打ちを探した宇野監督。何度も選手の顔をながめながら、結論が出ない様子だった。ようやく決断した監督から出た言葉は、悪気がなかったにしてもその選手を憤慨させるのに十分なほどだった。
 「なーんだ、スー(須藤の愛称)しかおらんのか。仕方ねえ、そんならお前行けや」。
 気が強く頑固者の代名詞、“土佐のいごっそう”で知られる四国・高知出身の須藤は、一気に顔が紅潮した。バットを持ち出し、グラウンドに出ると、コーチスボックスに戻る宇野監督に向かってタンカをきった。
 「監督なら、誰が残っているかくらいしっかり覚えときや」。相手ベンチにも聞こえるほどの大声だった。試合中、入団7年目の選手が自軍のボスである監督に面と向かって怒鳴るという前代未聞の“事件”だった。
 「右の代打はもう2人使っていてオレしかいない。監督ならそれくらい頭に入れておいてほしかった。実は8回の攻撃中に主将格の田宮(謙次郎外野手)さんから“スー、出番来るから体動かしとけ”と言われて、気合い入れてバット振って準備していた。出番が来ればひと言“頼むぞ”でいい。そうすれば、よし打ってやろう、と気合いも入る。けれど“仕方ねえ”で怒りが爆発した。僕は入団してから、別当薫監督、西本幸雄監督と厳しい人の下でやってきた。宇野監督はベテランに甘く、若手は見下していた。この時のことで僕は大毎には未練がなくなった」。
 後に須藤は振り返っているが、監督に“ケンカを売った”のだからタダでは済まない。翌日2軍行きを命じられると、そのままシーズン終了までファーム暮らし。同じ高知出身の巨人・土居章助内野手とのトレードが決まったのは、11月のことだった。
 いわば口うるさい造反分子として追い出されたわけだが、須藤にとって川上哲治監督率いる巨人への移籍は野球人として大きく羽ばたくきっかけとなった。
 エリート集団の巨人には須藤のようなうるさ型の選手は珍しく、いい刺激剤となった。看板選手長嶋茂雄三塁手がミスしても、見て見ぬりをせず思ったことを口にできたのは須藤だけであった。そんな異分子を川上は愛すべきキャラクターとして認め、貴重なバイプレーヤーとして重用した。
 「結局、ジャイアンツに行ったことでコーチの道も拓けたし、監督をするチャンスも巡ってきた。あのケンカとトレードがなかったら、どうなってたかね。こんなに長く野球に関係することはなかったんじゃないかな」と須藤。川上の下でもコーチを務め、その後巨人2軍監督、ヘッドコーチとして活躍。大洋の1軍監督としてもアグレッシブな野球を見せた。

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