日めくりプロ野球 7月

【7月9日】1955年(昭30) まさか丸2年勝てなくなるとは…権藤正利、28連敗始まる

[ 2009年7月1日 06:00 ]

強靭な体力とは程遠かった権藤だったが現役生活は20年。体のケアの知識が乏しかった時代では異例の長寿投手だった(写真は阪神時代)
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 【広島5-4広島】15勝で新人王、2年目も11勝。「プロなんてこんなもんか。けっこういい商売だな」と思い始めた3年目、予想もしない長いトンネルに入り込むことになった。
 大洋の左腕権藤正利投手は埼玉・熊谷での広島13回戦の7回、4-4の場面で登板。3番白石勝巳一塁手に勝ち越し適時打を打たれて1点を奪われると、そのまま敗戦投手となった。

 これがすべての始まりだった。翌10日、場所を栃木・大田原に移しての広島14回戦でもリリーフに立った権藤。9回から4イニングを投げたが、延長12回につかまり1点を与え、連日の敗戦投手に。「ツキがねぇなぁ」と嘆いたが、なんとシーズン閉幕まで8連敗。3勝21敗という惨たんたる成績が残ってしまった。
 一度おかしくなった投球の歯車はなかなかかみ合わない。翌56年、前年の半分の20試合に登板し0勝13敗。好投すれば打線が沈黙し、おまけに味方の失策に足を引っ張られた。逆に打線の援護があった時も勝ちを焦り、力んだ挙句、四死球で自滅した。
 きゃしゃな体つきでスタミナがなかったのも問題だった。1メートル76の身長がありながら、体重は57キロ。投球中に風が吹いてよろけてしまい、ボークをとられたという逸話は本当の話だ。胃腸が弱く、体力の源である食事も一度にたくさん食べられず、しかも大の甘党で偏食。夏場は序盤に好投していてもすぐに“燃料切れ”でKOされた。
 ルーキー時代から2年は速球とカーブのコンビネーションで打ち取れたが、3年目にチェンジアップを覚えようとしてフォームを崩したのも致命的だった。腕が振れないためストレートが走らず、もともと課題があったコントロールも余計に定まらなくなった。
 佐賀の実家は酒店。21連敗で終わった56年オフ。父親から「野球を辞めて家業を継げ」と“最後通告”されたが、権藤は辞められなかった。「いつまでも勝てるまで待っているからな」。大洋・中部謙吉オーナーにかけてもらった言葉にどうしても報いたかったからだ。
 57年も6月2日の阪神10回戦(甲子園)に敗れてシーズン7連敗。ついに丸2年、28連敗となった。「もう2度と勝てない」と思っていた矢先の7月7日、後楽園での巨人12回戦で4安打完封。ようやく不名誉な記録にピリオドを打った。まるで優勝したかのように小雨が降る中で胴上げされた権藤はチームメイトの前で大粒の涙を見せた。
 権藤のウイニングショットのカーブはいわゆるドロップといわれる、落差の大きいカーブ。小学生の時、竹とんぼを作っていて、カッターで左手人差し指の先端を切断するという事故にあい、これが独特のカーブを投げられる秘訣とされたが、権藤自身はこれを否定している。「実際は親指と中指で投げていた。人差し指はストレートの時もそうだが、ただ添えているだけ。短い人差し指があるからあのカーブが投げられると勝手に新聞記者が書いたから、面倒くさいのでそのままにしておいた」。
 60年に三原脩監督がロングリリーフで多用し再生。12勝をマークし大洋初優勝に貢献した。63年オフに西鉄へのトレードを不服として自由契約になり、東映へ。1年で阪神に移り、67年には防御率1位、69年に通算100勝をマーク。16年目での達成は当時46人目の達成者の中でもっとも遅かった。引退後は家業を継いだが、酒はほとんど飲めず「ウイスキーを甘いジュースに混ぜて飲む程度」。引退しても甘党なのは変わらなかったようだ。

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