日めくりプロ野球 7月

【7月8日】1992年(平4) 脇役が主役になった日 新井宏昌「こういうの困るんだよ」

[ 2009年7月1日 06:00 ]

近鉄に移籍後、中西太打撃コーチの指導でさらにバッティングに磨きをかけた新井。89年には念願の優勝も経験した
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 【近鉄6-6オリックス】猛然と三塁ベースに滑り込むと、ホッとした表情とともに、困ったような顔をした。花束を持って藤井寺球場のマスコットガールが駆け寄ると、軽く会釈をして受け取った。派手なガッツポーズも満面の笑みもない。スタンドのファンにはヘルメットを取り、1回手を挙げただけ。メモリアル安打達成の瞬間はかつてないほど地味なセレモニーとなった。

 3回2死、近鉄の9番新井宏昌中堅手はオリックス・伊藤敦規投手の初球、外角高めのストレートを強振し、右中間フェンス直撃の三塁打。通算2000本安打を達成した。法大からドラフト2位で南海入りしてから17年目。大学出の選手としては5人目の名球会入り。40歳2カ月での記録到達は当時の最年長記録、初の40代での達成者だった。
 17年間、脇役に徹してきた。花束をもらうことさえ「個人的なことでゲームの流れを止めたくない」と1度は固辞した。球団から「応援してくれたファンに感謝の気持ちだけでも伝えなければ」と説得されて、しぶしぶ同意。本音を言えば「主役扱いされるの嫌なんだ。俺は王さんや長嶋さんとは違うんだ。どうしていいか分からなくなる。こういうの困るんだ」。首位打者1回、打率2位2回、3割7回の安打製造機は「野球より緊張する」と2000本のプレッシャーより、その後のことのほうが気が気でならなかった。
 正直なところ、ここまでヒットを量産できるとは思っていなかった。大阪・PL学園高では夏の甲子園で準優勝。71年のドラフトで近鉄に9位指名されたが「スカウトの人があいさつに来た覚えがない」という信じられない状態で、自然消滅。法大に進学した。
 4年の時、大学全日本のメンバーに入った。各球団のスカウトも走攻守3拍子そろった新井の名前は知っていたが1メートル74、61キロの小柄な外野手への最終評価は「プロでは体力的についていけない」だった。
 ただ1人だけ「そんなことは関係ない。ミートが抜群。タイミングの取り方も並じゃない」と高く評価したのが、南海・野村克也監督兼任捕手。日米大学野球選手権をテレビで見ていて、その才能を見抜いた。スカウト全員反対の意見を押し切り、川勝傳(かわかつ・でん)オーナーの「野村がええって言うんやから」の鶴の一声で2位指名された。
 プロ入り後、野村監督は言った。「プロで長くやろうと思ったら、人にはできない特技を身につけることや」。パワーでは劣る、ヒットをうまく打つ選手もプロにはたくさんいる…。新井が“特技”として選んだのは、左打者でありさらに俊足を生かせるバントだった。来る日も来る日もバント練習に明け暮れたが、これがデビュー戦で効果を発揮した。
 ルーキーイヤーの75年7月25日、1軍に昇格した新井はプロ初出場で1番・中堅でスタメン。平和台球場での太平洋後期1回戦で東尾修投手から三塁線にセーフティバントを決めた。プロ初安打がバントヒット。08年まで37人の2000本安打達成者がいるが、初安打が内野安打だったのはロッテ・落合博満内野手と巨人・柴田勲外野手(当時投手)と新井の3人のみ。しかも、バントヒットというシブい初安打を記録したのは新井だけだ。
 首位打者を獲った87年も22犠打、近鉄が優勝した89年には過去最高の31犠打を記録。通算で300犠打も歴代5位(08年現在)だが、2000本安打達成者で300犠打以上は1人もいない。
 大台を達成したこの92年限りで引退。オリックスのコーチとなり、オープン戦で打ちまくった鈴木一朗外野手に「イチローっていう名前にして売り出したら」と言ったのは、仰木彬監督ではなく実は新井打撃コーチ。監督は「それはいい」と同調したというのが事実のようだ。
 打撃コーチとしての手腕は高く、03年にダイエーの“ダイハード打線”をプロ野球記録のチーム打率2割9分7厘まで成長させた。今後もその育成技術が高く買われる日がくることは間違いないだろう。

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