日めくりプロ野球 7月

【7月4日】1982年(昭57) いまだに“日本記録”ファーム本塁打王斉藤浩行 1軍第1号

[ 2009年7月1日 06:00 ]

84年10月31日、来日したボルティモア・オリオールズとの試合で本塁打を放った斉藤。3試合で8打数5安打。大物の片りんを見せた
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 【中日7-3広島】スタメン2試合目で先制の1発だった。広島のルーキー、7番に入った斉藤浩行左翼手は中日15回戦(広島)の5回、都裕次郎投手から左翼席に飛び込むプロ1号本塁打を放った。
 ウエスタンリーグで12本塁打、51打点。ダントツの2冠王の実績を引っさげての1軍昇格だった。実力通りの一撃も本人はあまり嬉しくなさそうで「詰まっていたので入るとは思わなかった」。狭い広島市民球場だからと言わんばかりのコメントだが、打球はスタンド中段付近まで飛ぶ、どの球場でも本塁打になる当たりだった。

 「カープの39番、気をつけろ。あのパワーは並じゃない」。中日ベンチの近藤貞雄監督はそうつぶやいた。敵将をうならせたパワーは、中日投手陣にも恐怖だった。3-3の同点で迎えた8回、2死二、三塁の場面で、ドラゴンズの守護神・牛島和彦は斉藤との勝負を避けて敬遠。強気で通っていた牛島が出場2試合目のルーキーに故意四球を与えるのはよほどのこと。新人はファンの前で1つの“伝説”を作った。
 宇都宮商高時代は三塁手として通算40本塁打。広島、クラウン(現西武)を除く10球団があいさつに訪れた。東京ガスを経て、津田恒美投手(協和発酵)に次ぐ81年のドラフト2位で入団。“ポスト山本浩二”と呼ばれた怪力の“ヘラクレス”への期待は大きかった。
 1年目に4本塁打を放ち、春季キャンプでも首脳陣が惚れ惚れするような打球を飛ばした。順風満帆だったはずの大砲にアクシデントが起きたのは2年目の日南キャンプ中だった。
 ノックの打球を右目に当ててしまい眼底骨折。野球どころか、失明の危機にも遭った。野球は絶望的と診断されたが、転院しながら治療。見事に復活を果たした。しかし、出遅れたことは否めなかった。
 将来のレギュラー候補も代打出場が多くなり、性格的に開き直るのがあまり上手でなかった斉藤は凡退すると引きずった。4打席きっちり立てば結果が出るタイプの選手だけに1打席勝負は性に合わなかった。その証拠2軍でスタメン出場すれば、数字を残した。引退するまでの11年で1軍では通算16本塁打に終わったが、2軍では09年現在、ファーム記録の161本塁打。4試合に1本の割合でスタンドに放り込んでいた。「2軍のデーゲームなら打てるのに、1軍のナイターになるとヘラクレスは音なしじゃ」と口の悪いカープファンは言った。
 その長打力に魅せられ、毎年他球団からトレードを打診されたが、89年、中日へ移籍。バッティングフォームを改造し、現役時代で最多の58試合に出場。落合博満内野手とクリーンアップを組むこともしばしばで、6本塁打17打点をマークした。
 日本ハムに移りネ92年に引退。06年から四国・九州アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツでコーチに就任。自分を超える大砲の育成に汗を流している。
 中学時代は剛速球投手。陸上競技の大会で砲丸投げをやり、腕を痛めたのが野手転向のきっかけだった。投手としてプロ入りしていれば、違う道を歩んでいたかもしれない。
 
 

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