日めくりプロ野球 7月

【7月27日】2002年(平14) 待ってました“キューバの至宝”7三振の末に出た待望の1号

[ 2008年7月25日 06:00 ]

阪神戦の1回、来日初本塁打を放ったリナレス。太り気味の体格になり、全盛時のキレは戻らなかった
Photo By スポニチ

 【中日6-0阪神】やっと出た、というよりやっと飛んだ、というのが本音だった。入団に賛否両論があった社会主義共和国キューバの“至宝”、中日のオマール・リナレス一塁手が、甲子園での阪神16回戦で来日1号本塁打を放った。
 「来日して一番の当たりだったね。とにかく早く打ちたかった。これまで僕をサポートしてくれた方すべてに感謝したい」と述べたリナレス。初回、2点を入れた後の一死一塁の場面で、阪神先発のカーライル投手のカーブを完璧にとらえた。多彩な変化球攻めにノイローゼ状態だった中で、皮肉にも打ったのは変化球。長いリーチをめいっぱい伸ばして打った打球は、左翼スタンド中段まで飛んだ。

 デビュー戦から13打席目。初めて飛球が外野に飛んだ。4打席目に広島・黒田博樹投手から左前打を放ってはいたが、打球はゴロ。リナレスならではの弾丸ライナーもなかった。
 24日の広島戦では左腕の河内貴哉投手から3三振を食らった。この阪神戦まで12打数1安打7三振。「キューバではこんなに変化球は投げない」と配球が全く読めずに悩み続けた。それだけにようやく出た一発に、中日・山田久志監督は「いやあ、ついに行ってくれたよ。イライラもしたと思うが、これで気持ちよく野球をしてもらえれば」と、食事に誘うなど気を遣ってきた指揮官もホッと胸をなでおろした。
 キューバ革命以後、初の海外でのプロ入り選手だった。数年前から「解禁間近」といわれながら、門戸が開かれなかったキューバ選手を中日が獲得できたのは、長年の粘り強い交渉もあったが、ある工事が大きなきっかけだった。
 キューバーは02年11月にアマ野球のインターコンチネンタル大会の開催国になっていたが、球場の外野フェンスの老朽化に困っていた。この話を聞いた中日サイドが、フェンスにラバークッションを取り付ける工事の資金を提供、4球場分、日本円にして約3600万円だった。
 野球選手であるとともに実は国会議員の顔も持っていたリナレスはこれに感動。かつては公私にわたって交流のあった、巨人・長嶋茂雄監督の“恋人”ともいわれたが、キューバ野球連盟がベテラン中心のチーム構成から若手へ切り替えたことに相まって、将来国際大会に勝てる指導者育成のためにプロ入りを解禁することを決めると、リナレスは迷わず中日を選択。契約金なし、月額約50万円の報酬で02年6月に入団を決めた。あくまで指導者になるための「研修」であったため、キューバ側は個人に報酬が支払われることは認めず、50万円の中から、一部がリナレスに支給される形を取った。
 17歳で異例のキューバナショナルチームに入りし、国内外で400本以上の本塁打を放った。世界大会4連覇、五輪では金メダル2回に銀が1回。輝かしい戦績だったが、中日入りした時はすでに34歳。パワーにかげりを見せており、中日入団時はキューバの国内リーグも引退していた。「年齢的にみてちょっと…」と現場サイドは戦力として疑問符をつけたが、大砲不足だったチーム状況から獲得。しかし、悪い予感は当たってしまった。変化球攻めには相変わらず苦しみ、ストレートも捉えきれないことが多かった。芯を少々外しても飛ぶ金属バットと木製バットの違いが端的に現れた。
 04年の日本シリーズで2本の本塁打を放って、短期決戦に強い往年の勇姿を見せたこともあったが、この年に戦力外通告。キューバーで2000本以上の安打を放ったが、日本での2年半の成績は132試合、86安打11本塁打、打率2割4分6厘。「優勝もできたし、いい仲間に恵まれた。野球選手を引退するに当たって最高の思い出」と語り、名古屋での優勝パレードに参加した後、家族の待つキューバに帰国した。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る