日めくりプロ野球 7月

【7月25日】1965年(昭40) 東大卒初のプロ、「南氷洋に行ったつもりで」1年目に初白星

[ 2008年7月24日 06:00 ]

東大出初のプロ野球選手だった新治。リリーフが主だったが4年間で9勝。どんな場面でも投げられる使い勝手のいい投手だった
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 【大洋8-4広島】プロ野球70年以上の歴史の中で、東京大学卒の選手は08年現在歴代5人。その第1号選手が大洋に在籍した、新治(にいはり)伸治投手である。
 新治が1軍で初勝利を挙げたのが19試合目の登板となった広島市民球場での広島15回戦。3番手として1回3分の2を2安打1四球で1失点も4個の三振を奪い、チームが逆転したことでの嬉しいプロ1勝目だった。

 「(2番手の)稲川(誠)さんと最後に投げた平岡(一郎)君がしっかり投げてくれたから僕に白星が転がり込んできた。感謝しています」。度の強い眼鏡の奥の瞳は感激でやや潤んでいた。開幕の時点ではファーム暮らし。左肩が早く開き、球の出所が打者に分かりやすいクセを森田斌2軍投手コーチとともに徹底的に矯正。その間走り込みをしながら、下半身を安定させたのが、夏場に来て生きた。敗戦処理から接戦の時のリリーフと、大車輪の活躍で、ついに勝ち星が付いた。
 1勝するとあとはトントン拍子。3日後の中日球場での中日15回戦でも3番手として3イニングのロングリリーフ。試合は4-3で大洋が勝ち、新治は2勝目をマークした。「自信がつきますね。これからもっとやれそうな気がしてきた」と表情が和らいだ。
 2段モーション的な決してしなやかとはいえないフォームから投げるストレートはキレも良く、ウイニングショットに縦のカーブとスライダーだった。ルーキーイヤーは40試合に登板。5勝(2敗)を挙げ、防御率は3・16。「話題先行だったが、結構使えた。嬉しい誤算だったね」と、数限りない奇策を演じてきた三原脩監督を喜ばせた。
 腕を買われてプロ野球選手になったわけではなかった。「食べるのも釣るのも魚が好き」という単純な理由で大洋漁業に就職した新治。サラリーマンになるはずが、マウンドに立つことになったのは、大洋漁業社長で球団オーナーの中部謙吉氏の「南氷洋に2、3年行ったつもりで、ちょっとプロで投げてみなさい」という遊び心からだった。背番号28のユニホームに袖を通すことになったが、身分はあくまで大洋漁業(現マルハ)の社員。大洋球団に出向しているという立場の投手は、この年大洋がめぼしい即戦力投手を獲得できなかったという裏事情で、アイディアマンの三原監督が中部オーナーに頼み込んで実現したとも言われている。
 都立小石川高から一浪して東大に入学。4年間で六大学リーグ戦で8勝を挙げた。敗戦数も派手で43敗を喫したが、白星の数は新治の在学4年間の東大のリーグ戦全勝ち数と同じ。つまり、1961年から64年まで新治以外に勝ち投手になった東大の投手は一人もいなかった。
 新治の通算成績は現役4年で88試合9勝6敗、防御率3・29。東大時代より勝ち星も1つ多く、決して悪い数字ではなかったが、三原から代わった別当薫監督は力的にも技術的にも限界と判断。もともと本社の出向社員でもあることから、プロ野球選手の引退を意味する自由契約や任意引退ではなく、本社に戻る人事異動という形になった。
 “本社復帰”後は経理畑を歩み、中国支社長も歴任。87年には大洋球団の非常勤取締役に就任。古葉竹識監督を助け、球団改革に乗り出そうとしたこともあった。87年入団したシンクイスト・レスカーノ外野手は新治の推薦でもあった。
 「ある意味、東大卒より才能のあるプロ野球選手の待遇改善にかかわる仕事がしたい」と常々話していたが、夢が果たせぬまま、04年5月4日に心不全で急死。62歳の若さだった。机の上には出版を考えていた、野球の理論書の原稿が残されたままだったという。
 新治の後、小林至(ロッテ)、遠藤良平(日本ハム)の東大出身左腕がプロ入りしたが、未勝利のまま引退。大洋の後身、横浜には松家卓弘投手が在籍しているが、1軍登録はされた経験はあるが、4年目で登板はなし。東大出投手の白星はかれこれ、40年以上記録されていない。

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