日めくりプロ野球 7月

【7月24日】1949年(昭24) ライバル帰国 名将対決はここから始まった!

[ 2008年7月22日 06:00 ]

56年の日本シリーズで顔を合わせた水原茂(左)と三原脩。笑顔の水原に対し、この時を待っていた三原の表情は厳しい
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 【巨人2-0大映】純白の麻のスーツに白のシルクハットをかぶり、その男は7年ぶりに後楽園の土を踏んだ。
 マイクの前に立った、巨人・水原茂内野手は、超満員のスタンドを見渡すと感無量になった。「日本で“職業野球”が盛んになっているとは聞いていたが、これほどまでに…」。水原が知っている職業野球は、東京六大学野球や甲子園での中等学校野球(後の高校野球)と比べれば、閑古鳥が鳴くスタンドだった。それが、観客席に入りきれず、グラウンドにまでファンがなだれ込むほどになった。まさに隔世の感であった。

 「みなさま、水原はただいま帰って参りました」。これだけ言うと次の言葉がでてこなかった。野球がまたできる。そう思っただけで、男泣きしてしまいそうだった。
 人気女優と浮名を流したこともある戦前の大スター選手、慶応ボーイの代表格としてならした水原だが、歳月は流れすでに40歳。試合前でも調髪を忘れなかったおしゃれが丸刈り頭。体は太ったように見えたが、実は栄養状態が悪くむくんでいたのだった。陸軍に応召されてから7年、終戦からは4年。シベリアでの過酷な抑留生活で精悍な名三塁手の面影は完全になくなっていた。
 水原を乗せた引揚船「英彦丸」で京都・舞鶴港に入ったのは4日前の7月20日。水原の帰国を引揚者名簿から知った巨人軍の親会社読売新聞は、他の新聞社に単独インタビューなどのスクープをされないように、舞鶴の収容所に一時入れられた水原をマーク。健康診断や進駐軍からのソ連に関する尋問などから解放されるのを戸口で待ったという。そして出てきた水原をヘリに乗せて東京へ。列車を乗り継いで後楽園へと連れて行き、巨人-大映(現ロッテ)11回戦の試合前に“帰国のあいさつ”をセッティングしたのであった。
 巨人側には川上哲治、千葉茂、相手の大映には巨人の監督だった藤本定義監督、チームメイトだったビクトル・スタルヒンら懐かしい顔が並んでいた。そして水原の労をねぎらう花束を笑顔で手渡したのは、三原修巨人軍監督。三原はこの年の4月14日の南海3回戦で暴行事件(ポカリ事件)を起こし、出場停止処分になり、監督として現場復帰したのは水原の後楽園凱旋の前日だった。
 水原と三原。年齢は水原が2つ上だが、同じ香川県高松市出身。水原は高松商、慶応、三原は高松中(現高松高)、早稲田と、常にライバル校でしのぎを削り、同じ巨人軍に入団しても「1番・二塁、三原」と「2番・三塁、水原」はチームメイトであってもライバルであった。
 笑顔で花束を渡した三原だが、水原の復帰で周辺はにわかに騒がしくなった。49年、巨人は三原監督のもとで戦後初優勝を飾った。しかし、川上や千葉らレギュラー選手を優遇したのに対し、三原は控え選手に対しては「お前たちは扶養家族だ」とまで言って、年俸だけでなく、宿舎での食事や移動列車の座席まで区別した。早くレギュラーを脅かし、一流選手になれ、という三原流のやり方だったが、これが一部選手の反感を買い、優勝監督でありながら排斥運動が起き、水原待望論が起きた。翌年2リーグ分裂を控え、多くの選手が必要になることから、巨人の控え選手が強気になり「残留の条件は三原解任」として年俸吊り上げの手段に用いたという裏事情もあるようだが、巨人は年末になってチーム内のゴタゴタを抑えるため「水原監督、三原総監督」という人事を決めた。
 総監督といってもベンチにも入らず、現場に口出しもできない、いわば肩書きだけのもの。球団事務所に朝出勤し、書類に判子を押したらやることはなく、職員相手に囲碁でもやりながら時々夜の宴席に顔を出すのが仕事だった。直接対立したわけではないが、結果的に優勝監督の三原は、水原あるいは巨人軍に「煮え湯を飲まされた」(三原)のであった。三原はユニホーム姿ではつらつと采配を振るう水原を次第に「憎悪」するまでになっていった。
 秋になった。1本の電話が三原の運命を変えた。「西鉄で暴れてくれませんか」と、受話器の向こうから話したのは三原監督の下で活躍し、2リーグ分列で誕生したばかりの西鉄に移籍した川崎徳次投手だった。三原は迷わなかった。もう巨人に未練はない。人は九州へ“都落ち”と言うだろうが何とでも言え…。九州へ向かう時の心境を自伝「風雲の軌跡」(ベースボール・マガジン社)の中でこうつづっている。
 関門海峡を越えながら、心で叫んだ。「水原君、必ずきみに挑戦する」
 雌伏5年。三原西鉄が水原巨人を日本シリーズで破ったのはネ56年(昭31)。以後、西鉄が巨人を立て続けに蹴散らし3年連続日本一。60年、6年連続最下位の大洋を率いた三原は巨人に競り勝ち、優勝。水原が巨人監督を退いたのは、大洋優勝の後だった。

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