日めくりプロ野球 7月

【7月10日】1977年(昭52) すべて直球…甲子園優勝投手永川英植の最初で最後の1軍

[ 2008年7月3日 06:00 ]

大型右腕として期待された永川英植投手だったが、プロでは公式戦1イニングだけの登板で終わった。選抜には2度出場も夏は甲子園に1度も出られなかった
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 【ヤクルト11-2大洋】ヤクルト10点リードの9回、1メートル90のスワローズ期待の右腕がヴェールを脱いだ。高校時代、球の速さでは栃木・作新学院高の江川卓(当時法政大)、球の重さではこの人と言われた、神奈川・横浜高出身の永川英植投手は入団3年目のこの日、長野で行われた対大洋12回戦に4番手として、初の1軍マウンドを踏んだ。

 高校2年の73年、春の選抜優勝投手。鹿児島実の定岡正二(巨人)、茨城・土浦日大の工藤一彦(阪神)、千葉・銚子商の土屋正勝(中日)とともに「高校球界ビッグ4」と呼ばれたうちの1人。74年のドラフトで工藤の2位以外はすべて1位指名でプロ入り。4人とも厳しい世界に戸惑い、伸び悩んでいたが、中でも永川の1軍デビューはしんがりとなった。
 大差の試合。緊張感があまりない場面での登板に、73年春の選抜優勝投手は「初登板といっても、あまり実感が沸きませんでした。神宮のナイターならよかったのに…」と、ファームとあまり変わりのない風景に取り立てて感激はなかった。
 先頭打者は大洋売り出し中のホープで、永川と同じ神奈川出身の田代富雄三塁手。故障で調整に回った、エース松岡弘投手より速いといわれた真っ直ぐだけで押して遊ゴロに仕留めた。
 しかし、続く江尻亮右翼手、谷岡潔遊撃手に安打を打たれ1失点。制球が定まらず、カウントを不利にしたところで“置きにいった”ボールを痛打された。
 最後の打者、代打の米田慶三郎内野手を打ち取り、試合終了。2安打1失点で八重樫幸雄捕手らと勝利の握手を交わした。
 21球すべて直球勝負を挑んだ初登板だったが「まだまだ使えない。ストライクをとるのに苦労している」とベンチの広岡達朗監督は辛口の評価。ヤクルトは長野を離れ、その足で広島へと移動したが、永川はチームとは逆方向の東京へ戻らなければならなかった。「1軍のマウンドはいい勉強になった。もっと投げ込んで自分の投球を磨きたい」と言い残して、特急電車に乗り込んだその後姿はなんとなく寂しげだった。
 結局、永川が1軍で登板したのはこの1試合だけで、80年4月25日に任意引退。原因は肝炎による体調不良だった。その前にも右ひじ痛なとでファームの試合にも満足に投げられなかったが、79年のオフに体が極度にだるくなり、吐き気ももよおし、とても運動などできない急性肝炎にかかり入院。療養に努めたが、回復してはまたぶり返し、自ら球団に引退を申し出たものだった。
 皮肉にも同じ年、母校横浜はエース愛甲猛投手(後にロッテ)を擁して、第62回全国高校野球選手権大会で夏初優勝。かつて横浜に紫紺の大旗をもたらした右腕エースは忘れ去られ、深紅の大優勝旗を勝ち取った左腕のアイドル投手の名前ばかりがクローズアップされた。
 ヤクルトは体調が回復すれば、永川との再契約の用意はあったが、それも実現せず、家業の焼肉店を切り盛りすることに。永川の名前が再び聞かれたのは91年7月15日。肝臓ガンによって35歳の若さで生涯を閉じたときだった。
 横浜高・渡辺元(現、元智)監督の回想。「夕方、オレが言いというまでずっと走ってろ、と言った。学校の仕事を終えて、夜の10時過ぎ。すっかり忘れていた僕がまさかと思って、グラウンドに行くと、アイツは倒れそうになりながら走っていた。そういうヤツでした…」。愛甲、松坂大輔ら甲子園優勝投手を生み出した渡辺監督だが、まだ横浜が強豪といわれる前の時代に、自分を男にしてくれた教え子の死は相当こたえた。
 “甲子園優勝投手は大成しない”。野球界の格言のような言葉は確かに当たっている。戦後、春夏通じて甲子園優勝投手としてプロ入りした投手で一番勝ったのは08年現在、大洋・平松政次投手(岡山東商高出身)の201勝。打者転向も含め、1試合も登板しなかった投手もいるが、登板1試合のみでユニホームを脱いだのは、永川と59年(昭34)に愛媛・西条高で夏の優勝投手となった、金子哲夫投手の2人。金子は60年に阪神入りしたが、一死もとれずに降板。公式記録では防御率∞(無限大)となっている。

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