日めくりプロ野球 6月

【6月5日】1983年(昭58) 高木豊の“怪”挙 二死からサヨナラプッシュバント

[ 2008年5月31日 06:00 ]

東都の安打製造機といわれた高木豊。プロ通算では1716安打。スーパーカートリオとしての活躍は大洋ファンならずとも記憶に残っている
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 【大洋3-2阪神】9回裏二死満塁。ここで決めてやる、と思わない打者は誰もいないが、大洋・高木豊二塁手の選択は、かなりスリリングで失敗すれば悔いが残る方法だった。

 マウンドはサウスポーの阪神・山本和行投手。当時スイッチヒッターだった高木は本来右打席に入るところである。が、左打席に入った。元々は左打ち。前日も左腕投手に右打席で打ち取られていた。それなら自信のある左で…という発想ではなかった。「左の方が一塁に近い」。足に自信のある高木が選んだ最良の方法とはプッシュバントだった。
 サヨナラ打を期待するライトスタンドのホエールズファンの大歓声も耳に入らないほど、冷静だった。三塁の掛布雅之のポジショニングを確認した。「掛布さんはバントの構えをすると、三塁ライン寄りからふくらんでダッシュしてくる」(高木)。ショート寄りの三塁側に転がせば、守備位置の深い真弓明信遊撃手が捕球しても一塁はセーフだ。シナリオは固まった。あとは実行するだけ。こういう奇策は一発で決めなければならない。相手も満塁のピンチ。初球からストライクがくるはずだ。
 予想は的中した。内角高めのストレート。バントの構えをした高木の姿に、掛布は意表をつかれたように慌てて前進する。横浜スタジアムの2万8000人の観客は、高木の選択に驚き、息をのんだ。
 “コン!”少し強めのプッシュバントでボールは三遊間に転がった。高木の読み通り、掛布は打球に対処できず、真弓がグラブに収めるも時既に遅し。背番号3は一塁ベースを駆け抜けた後だった。三塁走者の石橋貢外野手はもちろん生還。大洋ファンは小躍りして大喜び、三塁からレフトの阪神ファンはあ然として、その場に立ち尽くした。
 「度胸がいいというか、やぶれかぶれというか、すごいことするねぇ」と、普段感情をあまり表に出さない関根潤三監督もいつになく興奮。ネット裏に陣取るうるさ型の評論家諸氏も「高木っていうのは使える選手だなあ」と一気に評価が高まった。
 中央大時代の通算安打は115本。“東都の安打製造機”と呼ばれ、自信満々でプロ入りしたが、想像以上のレベルの差に一時ノイローゼ気味に陥った。
 二塁にはベテランの“職人”基満男内野手がおり、とてもレギュラーにはなれそうもなかったが、2年目の82年のキャンプから松原誠打撃コーチの指導などで「バットのヘッドの使い方を覚えた」ことで開眼。一気に定位置を奪い取った。
 その俊足を生かし84年には盗塁王を獲得。打率3割台は当たり前で、不動の1番打者として活躍し、話題の少なかった80年代の大洋の中で加藤博一、屋鋪要両外野手と最大の“ヒット商品”「スーパーカートリオ」を組み、一世を風靡した。
 スバスバと臆せずにモノを言う性格。入団時背番号は16だったが、2年目に球団はレギュラー格であることを意味する1ケタの「3」を用意した時も「大洋で3番を付けて大成した人がいない」と拒否。最終的に受け入れたのは、よく当たると信じている占いが決め手。占ったのは甲子園の近くにある行きつけの焼き肉店の女性だった。
 ホエールズの顔であった選手だが、93年チームがベイスターズとなるとその年のオフに屋鋪らとともに自由契約に。一時中日入りが決まりかけたが、話が流れ、親分こと大沢啓二監督に誘われて日本ハム入りした。
 2000年に古巣ベイスターズのコーチを1年務め、長嶋ジャパンのコーチとしてアテネ五輪に参戦。現場への復帰意欲は十分で今後の動向が注目される。

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