日めくりプロ野球 5月

【5月20日】1944年(昭19) 1試合2度本盗成功!永久欠番・黒沢俊夫の野球人生

[ 2010年5月1日 06:00 ]

 【巨人7―2近畿日本】一塁走者のスタートと呼応するように、三塁走者が敢然と本塁へ突進した。砂煙を上げてスライディングし、見事生還。巨人はダブルスチールを成功させて1点を奪った。
 単独ではなかったが、ホームスチールを成功させたのが黒沢俊夫外野手。決して俊足というわけではなかったが、スタートのタイミングが絶妙で、この試合でもう1回重盗による本盗を成功させた。

 太平洋戦争真っ只中、多くの選手が戦場に出征し、極端な選手不足だった職業野球。選手の技量も高いとはいえず、黒沢のような草創期からのベテランの技が随所で際立った。黒沢は8年の選手生活で通算80盗塁を記録しているが、うちホームスチールが10を数え、プロ野球歴代2位。1位は与那嶺要外野手の11だが、通算163盗塁と黒沢の倍以上。単純計算で黒沢は8回に1回が本盗という驚くべき数字を残した。
 重心を下げた姿勢で打席に立ち、ミートを心がけたシュアな打撃が光った黒沢。トレードマークとなった、セルロイド製で米喜劇役者ハロルド・ロイドがかけていたことで命名された「ロイド眼鏡」を中指で上げながら打席に入る姿が印象的だった。
 巨人の永久欠番は川上哲治一塁手や長嶋茂雄三塁手、沢村栄治投手ら計6人。いずれも輝かしい球歴を残した選手だが、その中の1人黒沢の通算成績は484試合出場で459安打7本塁打、打率は2割5分9厘。残した成績で黒沢を上回る巨人OBは数えきれない。1947年(昭23)6月23日、腸チフスによって33歳の短い生涯を閉じたこの左打ちの外野手がいたからこそ、巨人軍は戦後の荒廃の中から立ち上がれたという感謝の気持ちを忘れないために同僚選手らの発案で背番号4は欠番となった。
 黒沢の巨人での実働はわずか3年。戦時中の44年に前年解散した西鉄(戦後の西鉄ライオンズとは別チーム)から選手不足の巨人に割り当てられた選手だったが、当時の全試合数35試合にフル出場し、打撃成績2位の3割4分8厘をマーク。主砲川上が軍隊にとられていた時代に巨人の中軸として活躍した。
 戦後46年に復活したプロ野球でも川上の復帰が遅れている間、4番を張り打率3割8厘、60打点をマーク。全105試合に出場し、主力選手がいない巨人の危機を救った男であった。
 そんな黒沢は47年のシーズン、開幕から調子が上がらず、6月2日の東急戦終了時に打率2割ちょうど。試合後、三原脩監督に「下痢と発熱で体が動かない。休ませてください」と申し出た。直後に東大病院で診察を受けると、診断は腸チフス。当時は手遅れになると命を落とす病気だった。
 黒沢のそれはもう処置の施しようがない段階だった。皮肉にも我慢強く、休むことを嫌っていたまじめな黒沢の性格が悲劇につながってしまった。黒沢は死期を悟っていたかのようだった。見舞いに訪れた巨人の同僚、山川喜作内野手と巨人の市岡忠男球団代表に最後のお願いをした。「僕が死んだら巨人のユニフォームを着せて葬ってほしい」。
 後楽園で中日を2―0で下した後、一部ナインが病院に駆けつけたが、午後5時55分に永眠。子供がなく、夫人一人が残された。
 黒沢は関西大学在学中に父親を亡くしていたが、息を引き取った日は試合があった。親族が「野球をやめて家に帰れ」と進言したが、黒沢は帰らなかった。「僕は野球のために父親の最期も看取れなかった。だからこそ、野球のために一生を捧げたいと思う」。これが口ぐせだったという。
 最後の最後まで体調不良を言い出さなかったのは、その誓いがあったからなのだろうか。黒沢の付けていた背番号4は東京ドームの外野席の柱に掲げられ、愛してやまなかった野球を見守り続けている。
 

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