日めくりプロ野球 5月

【5月1日】1975年(昭50) 2軍戦に1万5000人 定岡正二初先発初勝利

[ 2010年5月1日 06:00 ]

74年12月、入団会見後に新人選手とともに記念撮影をした長島監督。右隣がドラフト1位の定岡。右端にはドラフト外入団の西本の顔も見られる
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 【巨人6―2ロッテ】ゴールデンウイーク前の平日。巨人の多摩川グラウンドには朝から巨人ファンが続々と集まってきた。男性も多かったが、それ以上に若い女性の姿が目立った。
「すごい数だね。ワンちゃんやチョーさんが来ている時もこんなことはなかった」と国松彰2軍監督も目を丸くした。球団発表で1万5000人の観衆を狭い多摩川の土手に集めたのは、イースタンリーグで初先発するドラフト1位ルーキー、鹿児島実業高のエースとして夏の甲子園ベスト4まで進んだ定岡正二投手だった。

 ファンだけでなく1軍首脳陣も注目していた。ベンチには特別にユニホーム姿の長嶋茂雄監督が入り、ネット裏には宮田征典投手コーチが座っていた。「すぐに1軍へというわけではない。どれぐらい成長したか見に来ただけ」と長嶋監督。最下位の巨人は1軍投手陣が壊滅状態。救世主の出現が待ち望まれている中で、川崎球場での大洋戦のナイターの前にわざわざ足を運んだのも“あわよくば”という淡い期待があったからだった。
 初回、先頭の芦岡俊明内野手に内野安打で出塁を許したが、続く新谷嘉孝外野手をフルカウントから空振り三振、3番伊達泰司外野手を遊ゴロ併殺打に仕留める上々立ち上りをみせた定岡。予定の3回までロッテ打線を無得点に抑えた。
 4回のマウンドにも定岡の姿があった。「5回まで見てみたい」という長嶋監督のリクエストに応えたものだった。続投した背番号20だったが、その4回6番阿部憲一捕手に右翼線二塁打を浴び2点を失った。
 5回まで定岡は59球を投げ、3安打2三振2四球で自責点2。巨人は初回に富田勝三塁手の3点本塁打などで5点を入れて、定岡に2軍戦初先発初勝利をもたらした。
 「立ち上りは緊張したが、お客さんがいっぱい来ていたので、頑張らなきゃと思って力いっぱい投げた。ストレートもカーブもブルペンの時より良くなかったが、初勝利は嬉しい。1軍?まだまだ先の話です」と定岡。長嶋監督の印象は「スピードもカーブも物足りない面はあったが、大分良くなっている。しばらくファームで鍛えてからだね」。宮田コーチは「体がぶれるのでコントロールが甘くなる。まあ、腕が振れるようになったのはキャンプの時から比べて進歩した点。2軍のローテーションに入ってしっかり鍛えてもらう」と、即1軍昇格とはならなかった。
 定岡が1軍で初先発したのはそれから2年後の77年5月26日、神宮でのヤクルト11回戦。しかし、1回3分の1、3安打3四死球3失点KOされた。
 長嶋ジャイアンツ初のドラ1右腕の肩身の狭い日々は続いた。以後、毎年1軍での登板はあったものの、上がってはまた2軍降格の繰り返し。入団から5年、1軍では18試合登板で0勝1敗の成績しか残せなかった。
 崖っぷち6年目、80年6月5日の中日10回戦(ナゴヤ)で6回2失点でプロ初勝利。23歳の同級生、角三男、鹿取義隆両投手が救援しての1勝だった。「本当に長かった。この1勝をまず両親に報告したい」。“契約金泥棒”などと中傷された家族のことを思うと、胸に迫るものもあり、ヒーローインタビューでは声が上ずった。
 80年、定岡は初勝利から9勝をマークした。この年、定岡入団とともに巨人の監督に就任した長嶋は3年連続V逸で解任された。翌年定岡は11勝。長嶋監督の置き土産は、藤田元司新監督に率いられた巨人の日本一に貢献した。

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