日めくりプロ野球 5月

【5月30日】1961年(昭36) いつでも投げます 走ります!新人権藤博、早くも10勝目

[ 2009年5月1日 06:00 ]

2年目までに65勝した権藤だが投手としては5年間で82勝。64年から3年間は内野手登録で投手時代と合わせて計18本塁打を放っている
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 【中日4-3阪神】3-3の同点で迎えた9回裏、1死一塁でカウント0-2。3球目、一塁走者は次の塁に向かって走った。打者は空振り、捕手は二塁へ送球。足から滑り込み、間一髪セーフ。サヨナラのお膳立てが出来上がった直後の4球目。打者は左前に安打を放った。前進守備にもかかわらず、勇気をもって本塁に突入した二塁走者は、砂煙をあげながら生還。会心のサヨナラ勝ちを収めた。
 サヨナラのホームを踏んだのは、弱冠22歳の新人、中日・権藤博投手。プロ野球界の名フレーズ「権藤、権藤、雨、権藤」と形容された伝説の投手の好リリーフと好走塁によってチームは3連敗を免れた。

 7回に3点差を同点にした中日・濃人渉監督は迷わずルーキー右腕を投入した。期待通り8、9回で2三振を奪い、きっちり3人ずつで封じた権藤。そして9回。延長戦をにらんで濃人監督は代打を送らなかった。阪神のエース、村山実投手の前に空振り三振をしたが、山本哲也捕手がこれを後逸。権藤は振り逃げで出塁した。
 吉沢岳男捕手への3球目。権藤は二塁へ走った。盗塁、ではなく濃人監督のサインはヒットエンドラン。吉沢が空振りしたため、権藤の走塁は結果的にスチールとなった。投手が走者、しかも虎の子のサヨナラのランナー…。もしけがでもしたら大変だし、この場面でのエンドラン自体考えにくい作戦だった。リスクを侵して権藤にサインを出したのは「村山から点を取るには積極的に揺さぶらないと連打は難しい。それにアイツの脚力を信頼していたから。そのへんの野手よりも速い」と濃人監督。作戦の是非はともかく、子供の頃から足がずば抜けて速かった権藤は、五輪三段跳びの金メダリスト・織田幹雄に「彼の脚力とバネがあれば五輪でメダルを取れる」と太鼓判を押されるほどだった。結果オーライ的な野球ではあったが、自らの足で白星を稼いだ権藤はこれでシーズン10勝目。リーグ最速の2ケタ勝利となった。
 キャッチフレーズそのままに、先発完投した翌日にリリーフ登板。その次もリリーフ、そして先発なんて“ローテーション”は当たり前だった。シーズンを通して巨人と激しい優勝争いを演じた中日は、来る日も来る日も権藤のか細い右腕に頼っていた。
 その典型的な例が8月27日から30日までの4試合。8月27日、甲子園での阪神17回戦(ダブルヘッダー第1試合)に先発した権藤は7安打2失点で完投、26勝目を挙げると、続く第2試合でも板東英二投手の後を受け、7回2死からリリーフ登板した。9回に味方が決勝の1点を入れ27勝目をマークした。移動日で1日空いたが、29日には後楽園での国鉄20回戦で2番手として登板。3回を投げて2点を奪われ敗戦投手となったが、30日の国鉄21回戦は先発で登板。金田正一投手と投げ合い、延長10回まで10安打を浴びたものの完投勝利を収めた。
 4試合連続責任投手となった権藤だが、これがシーズン中3回もあった。1年目で中日の全試合数130の半分以上の69試合に投げ、チーム勝利数71勝のほぼ半数の35勝(19敗)をマーク。優勝こそ逃したが、新人王はもちろん最多勝、最優秀防御率(1・70)、沢村賞にベストナインを獲得。最近では200イニング投げればエースといわれるが、権藤が記録した429回3分の1は今後破られる可能性が限りなく低い、不滅のプロ野球記録である。
 佐賀・鳥栖高卒業時に西鉄のテストに呼ばれ、三原脩監督の前で投げたが不合格。これで「絶対プロに入ってやる」と闘志に火がついた。大学に行ったつもりで社会人ブリヂストンタイヤで投げ、4年後は九州を代表する投手になった。巨人、中日の争奪戦となり、巨人優位も中日が逆転で獲得。当時ブリヂストンと福岡で都市対抗出場をかけてしのぎを削っていた日鉄二瀬の前監督だった濃人が60年から中日のコーチとなっていた人脈が最後にものを言った。
 同じ九州出身の西鉄・稲尾和久投手に憧れ「投球フォームから何気ない仕草までそのままそっくりまねた」(権藤)。稲尾よりも高い腕の位置から繰り出すストレートは「ドラゴンズ史上、一番真っ直ぐが速かった」と証言する関係者も少なくない。酷使によって実質現役2年、65勝の投手生活だったが、名投手コーチ、横浜38年ぶり日本一の指揮官として独特の指導法は球界でも一目置かれている。、

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