日めくりプロ野球 5月

【5月29日】1994年(平6) “親分”大沢監督 7度目の退場!羽交い絞めされてもキック!

[ 2009年5月1日 06:00 ]

78年6月11日、後楽園での日本ハム-阪急戦の7回、アウト、セーフの判定をめぐって沖一塁塁審(右)につかみかかる大沢監督。これが4度目の退場だった
Photo By スポニチ

 【ダイエー9-4日本ハム】還暦を過ぎてもなお意気軒昂。日本ハム・大沢啓二監督が通算7度目の退場を言い渡された。東京ドームでの日本ハム-ダイエー9回戦の6回、ダイエー・松永浩美三塁手の遊ゴロを一塁でセーフと判定されて激高。一塁側ベンチから62歳とは思えぬダッシュで飛び出し、牧野一塁塁審を両手で突いた。
 即刻「退場!」と宣告されても、簡単には引っ込まない。「この下手クソ!何だありゃ。どこ見てんだ!」と暴言を吐きながら、牧野塁審の左足を蹴り飛ばすと、こんどは右ストレートでパンチを見舞おうとした。が、コーチ陣に後から羽交い絞めにされ、身動きが取れない。それでも足をバタつかせて「コラ、待ちやがれ」と抵抗。顔面は紅潮していた。

 ダイエー戦5連敗中で負ければ最下位転落となる試合も終始ダイエーペース。判定にも頭にきたかもしれないが、“親分”は大事な局面を迎え、ひと芝居打った。監督が怒りを露にすることでチームの士気を高め、ムードを変える。ひと昔前の発想かもしれなかったが、大沢監督にとってはこれは必殺技。勝負をかけた“退場”だった。
 日本ハムは大沢監督退場直後の6回裏、4本の安打で4-4の同点に追いついた。指揮官の体を張った戦う姿勢にナインが燃え移り、意地をみせた形となった。試合は延長戦の末敗れたが、闘将の通算7度目、歴代2位タイ(当時)の退場は無意味ではなかった。
 神奈川商工高時代、夏の甲子園をかけた予選で、球審の判定で敗れたと感じた大沢投手は試合終了後、その審判をボコボコにしたという逸話が残っているが、立教大を経て南海入りした1954年(昭和29)から引退するまでの12年間、大沢は選手として1度も退場がない。記録はすべてコーチ・監督時代のものだ。
 初退場は66年7月24日、東京(現ロッテ)-東映(現日本ハム)16回戦。当時、東京の三塁コーチだった大沢は三塁線のバントがフェアかファウルかをめぐり、ファウルと反対されたことで三塁塁審に抗議。「オレは見ていた。フェアだ」との主張が受け入れられず、塁審を突き飛ばした。2度目は日本ハムの監督に就任した76年6月17日の阪急戦。相手投手の竹村一義投手に向かって一塁コーチスボックスからマウンドへ突進し、張り倒した。ビーンボールを2度投げたということで怒りが爆発しての大暴れだった。
 76年と83年には年に2度退場を宣告されている。「そりゃあ、暴力を振るうのは良くないことは分かってる。でも、抗議に行くとカッとなっちまんだな。口よりも先に手が出てしまう。気がつくと退場なんだ」と大沢。ただ、多分に演出の部分もある。「野球っていうのはボールを使ったケンカよ。ケンカはやられっぱなしじゃいけねえし、そんなのプロじゃねぇ。選手が下向いている時に、半分演技で怒ってみることはあった。選手をハッとさせて士気を高めるってやつだな」。
 不思議なことに大沢監督で日本ハムが優勝した81年や後期優勝した82年、快進撃をした93年は1度も退場劇がない。大沢は現役時代、考えられないような守備位置にいて打球を好捕し、何度もチームのピンチを救った名手だった。「自分なりのデータの蓄積もあるが、決め手は洞察力」と大沢はファインプレーの極意を説明するが、今やるべきかどうか、計算しながら“暴れていた”ようだ。“喝!”とばかり声を張り上げているだけの親分はないのである。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る