日めくりプロ野球 5月

【5月28日】1980年(昭55) 張本3000本安打の日に…庄司智久はプロ9年目で初!

[ 2009年5月1日 06:00 ]

巨人を出て成功した代表格といわれた庄司。通算532安打44本塁打。盗塁も67個を記録した
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 【ロッテ11-4阪急】“昭和のヒットメーカー”張本勲外野手が日本球界初の3000本安打を達成してから約30分後、同じ川崎球場でプロ9年目にして初の歓喜を味わっているロッテの選手がいた。
 庄司智久外野手。巨人からロッテに移籍した1年目の庄司は途中出場した阪急前期11回戦の7回に松本幸行投手から左翼へシーズン1号本塁打を放った。77年にイースタン・リーグで打撃3部門に盗塁を加え、4冠王を獲得した男だが、9年目にしてこれが記念すべきプロ初本塁打だった。

 しかし、この日は張本の前人未到の大記録達成日。どこのスポーツマスコミも取り上げるところはなく、9年かかった一生に一度の会心の1発にも談話すら新聞には載らなかった。
 「タイミング悪いな…」自らを呪った庄司。張本は前年まで同じ巨人に在籍していたが、庄司が1軍出場した試合は代走か二宮至外野手と併用で張本の後を引き継いで守る守備固めばかり。また陽の当たる場所には出られないのか…。ホームランに喜びながらも、そんなことが頭の中をよぎった。
 しかし、決して運は悪くなかった。むしろ、この1発がこれまでのうっぷんを晴らし、大暴れするきっかけとなった。初本塁打から2日後の5月30日、南海前期6回戦(川崎)でロッテ・山内一弘監督は右足首ねんざの弘田澄男中堅手に代わり、「1番・中堅」に庄司を起用。27歳の誕生日のスタメンでプロ初の3安打、8回にはダメ押しの2号ソロと忘れられない1日となった。
 「オレはなにもしとらんよ。きょうはチャンスメークした庄司に聞いてやってくれ」と山内監督。初本塁打を打っても誰も話を聞いてくれなかった報道陣がグルリと背番号35を取り囲んだ。「ただがむしゃらにやった結果。たまたまですよ」と生真面目な男は照れるばかり。インタビューにもまったく慣れていなかった。翌6月1日の南海戦でも2試合連続の3号3点弾。初本塁打を放った時、打率は1割6分7厘しかなかったが、この2試合で一気に3割6分8厘に急上昇した。
 79年オフ、巨人との間に3対2のトレードを成立させた山内監督は、巨人から移籍した庄司、小俣進投手、田村勲投手の中で庄司に大きな期待をかけていた。打撃指導をすると、やめられない止まらない“かっぱえびせん”のヤマさんが「ファームとはいえ、4冠王と盗塁王を3年連続で獲った男。必ずいいものをもっている。ごちゃごちゃ言わないほうがいい」と珍しく放任。アドバイスは「バットを少し寝かせろ。その方がスムーズに振れる」と言っただけ。これがスパイスとなって、庄司のバッティングは開花した。
 この年、レギュラーを獲得し、ロッテの前期優勝に貢献。翌年は不動のトップバッターとなり、前年同様前期Vの立役者の一人になり、初の規定打席にも到達。巨人時代の8年間で1軍わずか2安打の選手が、151安打もヒットを量産し2割9分3厘で打撃成績16位に名を連ねた。
 初の猛打賞を記録した誕生日に庄司のもとに12通のファンレターが届いていた。「こんな僕にもファンがいるんですね」と感激していたが、その1年後、オールスターのファン投票では13万361票を獲得。パ・リーグ外野手部門では5位だったが、近鉄・西本幸雄監督の推薦で夢のまた夢だった球宴に10年目で初出場。7月26日の第2戦(横浜)では9回に元同僚の巨人・角三男投手から本塁打を放ち、優秀選手賞に輝いた。
 その後、手の皮が頻繁にむける奇病に悩まされ、安定して試合に出場することが少なくなり、88年を最後に現役引退。不動産業に転身するなどしたが、野球への情熱は消えずマスターズ・リーグで往年の雄姿を見せた。

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