日めくりプロ野球 5月

【5月20日】1973年(昭48) 梅田邦三、5年目の初本塁打 プロ通算3万号!?

[ 2009年5月1日 06:00 ]

幻の3万号本塁打を放ち、一塁ベースを回った時の梅田。68年ドラフト9位で日本新薬から巨人入団。通算成績は実働11年、279安打3本塁打71打点で打率2割1分6厘。盗塁83と俊足好守の選手だった
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 【太平洋6-2近鉄】「えっ、ホンマですか?」。1メートル68の小柄な内野手がホームランを打っただけでもビックリなのに、メモリアル弾と聞かされて2倍驚いた。
 太平洋クラブ(現西武)の梅田邦三遊撃手は、平和台球場での近鉄9回戦の5回、期待のルーキー“ジャンボ”こと、仲根正広投手から左翼席へプロ5年目で初の本塁打を放った。これが1936年(昭36)5月4日、阪神・藤井勇外野手が甲子園でセネタース・野口明投手から放ったランニング本塁打から数えて、プロ野球通算3万号のメモリアルに。初アーチが球史に残る一発となった。

 半ばやけっぱちになって打った初弾だった。「投手を揺さぶって出塁しようと思った」という梅田は1、2球目セーフティバントを試みた。が、いずれも失敗。ヒッティングするしかなくなって内角高めのボール気味の直球を強引に引っ張ったところ、思った以上に飛んでいったというものだった。
 この試合、西鉄から新しく生まれ変わった太平洋の試合が初めて全国ネットでテレビ中継された一戦でもあった。守備固めと代走要員の控え選手だった梅田の名前はライオンズファンから全国の野球ファンにも知れ渡っることになった。
 同年梅田は初めて規定打席に到達。打率2割4分7厘で26位ながら、レギュラー選手として1年間戦い抜いた。公私共に記念すべき初本塁打は、野球選手としてステップアップする大きなきっかけとなった一撃だった。
 それから3年。中日に移籍していた梅田に思いもよらぬ知らせが届いた。過去の公式戦の記録をすべて調べ直していたところ、本塁打の数え間違いが発覚。3万号だったはずの初アーチは、実は2万9999号だったことが判明した。3万号は、同じ近鉄戦で梅田の後に左中間へ本塁打を打った西鉄・基満男二塁手ということになった。
 それからというもの梅田の選手生活は災難続きだった。幻のメモリアル弾と分かった76年に右手を骨折、翌年は左ひざのサラが割れた。なんとか持ち前のガッツで頑張ってきたが、78年オフには球団からトレード要員であることを告げられた。巨人、太平洋、中日と渡り歩いて、次はいずこへ…と覚悟を決めていたが「買い手がなかった」(中日球団幹部)と残留。しかし、1度は戦力外といわれた選手に働き場所はなく、11試合出場のみで79年解雇。80年日本ハムに拾われたが、活躍できずに引退した。
 球史に名前を残すことができなかった不運に「中途半端な選手だった」と梅田。実はもう1つ名を残す可能性はあった。ショートの定位置を獲得した73年に守備率9割8分8厘で、同ポジションのパ・リーグ記録をつくった。これも92年に日本ハム・広瀬哲朗遊撃手が9割9分1厘を記録。梅田がNO.1として誇れる記録が球史からはなくなってしまった。
 引退後は故郷京都でスポーツ用品店を経営。ボーイズリーグの監督を務め00年に日本ハムにドラフト2位指名された木元邦之内野手(現オリックス)らの選手を輩出している。

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