日めくりプロ野球 5月

【5月11日】1945年(昭20) 南海の大空に散華した戦前最後のノーヒットノーラン投手石丸進一

[ 2009年5月1日 06:00 ]

名古屋軍在籍最後の年となった43年の石丸。ユニホームも軍服タイプ、帽子も戦闘帽なのが時代を色濃く反映している
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 朝陽を浴びながら、滑走する海軍の戦闘機ゼロ戦の操縦席から、何かが地面に向かってたたきつけられた。滑走路に転がった野球のボールとそれをくるんだ鉢巻。見送る同僚が拾い上げた日の丸の鉢巻には、こう記されていた。「われ人生二十四歳にして尽きる 忠孝の二字」。
 鹿児島・鹿屋の海軍航空隊基地。太平洋戦争末期、連日ここから飛び立つ特攻機の中に、名古屋軍(現中日)の内野手、投手として活躍した石丸進一少尉がいた。この日、沖縄を攻撃中の米軍に対し、日本軍は総攻撃を敢行。陸海軍はそれぞれ九州南部の基地から特攻機を出撃させた。石丸は「第5筑波隊」の隊員として愛機に搭乗。限界いっぱいの500キロ爆弾を装着して午前7時前に沖縄の米艦隊に向かって、必死の体当たり攻撃に向かった。

 佐賀商出身の石丸が職業野球=プロ野球の世界に入ったのは、41年(昭16)。兄の石丸藤吉内野手はチーム結成2年目の37年から名古屋の二塁手として活躍していたが、石丸は兄に血判を押した手紙を送って名古屋入りを懇願した。動機は家の借金を返済するため。実家は理髪店だったが、父親が相場に手を出し、作った借金は3000円。大卒で一流企業に入ったとしても、初任給月60円の時代。当時はまともな職業とみられていなかったプロ野球だが、石丸に迷いはなかった。大好きな野球をやって、困った家族の役に立ち、月100円をもらえるのは魅力的だった。
 1メートル70と小柄な右腕だったが、速球投手として九州一円ではその名は知れわたっていた。スカウトを兼ねていた名古屋軍の赤嶺昌志代表は石丸の評判と「藤吉の弟なら」と入団を許可した。
 しかし、1年目は内野手として出場した。兄はレギュラー二塁手たったが、徴兵で中国戦線に赴き不在だったため、俊敏な弟が代役として起用された。兄が戦地から帰還した、42年にようやく投手デビュー。4月1日、西宮球場での対朝日軍(後の松竹、大洋=横浜と合併)2回戦で2安打完封の初勝利。シーズン17勝をマークした。8球団中7位の名古屋の4割以上の勝ち星を稼いだことになり、防御率は1・71。翌43年は20勝に手が届き、防御率は1・15。チームの2位躍進の立役者となった。
 石丸が球史に名を残したのは43年10月12日、後楽園での大和(戦前で消滅)11回戦。自らの失策と四球による2人を走者に出しただけで、無安打無得点のノーヒットノーランを達成した。崩れる時は四球を連発して自滅していたが、初回から低めにボールが集まり、打たせて取る投球で内野ゴロは実に15を数え、7回に先頭打者の投ゴロを自分でエラーするまでは完全試合だった。
 戦前最後の大記録を残した翌13日の朝日戦でも勝ち投手になった石丸。連投に次ぐ連投は、選手を戦場に取られ人数不足ということもあったが、黙々と投げる石丸の姿はもう二度と野球ができなくなるということを察していたかのようだった。
 その8日後の10月21日、雨の明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で行われた学徒出陣の壮行会に参加。ユニホームを脱ぎ、軍服に着替えて戦場に立つことになった。プロ野球選手は徴兵免除を得るため、大学の夜間部などに籍を置いていたが、軍は学生の動員も決定。日本大の夜間部に在籍していた石丸も海軍に入隊することになった。航空隊に志願した石丸は、やがて特攻隊に編成され運命の日を迎えた。
 海軍時代のいしまるを知る戦友の証言は共通している。「普段は無口で笑うこともない男だったが、軍隊内で時々野球をやっている時や基地の近所の子供たちとキャッチボールをしている時だけニコニコしていた」。
 出撃前日の5月10日、別の隊にいた元法政大の本田耕一一塁手を捕手にして、最後のキャッチボールをしたと伝えられる石丸。最後の10球はすべてストライクだったという逸話は有名だが、ボールは名古屋入団を許可してくれた赤嶺代表に別れを告げるため、4月に訪ねた際にもらったものだった。
 石丸のゼロ戦は敵艦に体当たりできたのであろうか。軍の記録では「沖縄周辺にて戦死」とあるが、特攻機が体当たりする際に司令部へ送る通信記録はなく、恐らく目標に到達する前に米軍機によって撃墜されたとみられる。
 石丸が戦死した3カ月後、日本は無条件降伏。戦後、プロ野球は隆盛を極めた。石丸は友人に求められた寄せ書きに「敢闘精神 葉隠武士」と記した後に「日本野球ハ」と書いたまま、筆を置いている。その後に何を書きたかったのか、今となっては知ることはできない。

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