日めくりプロ野球 5月

【5月7日】1987年(昭62) 渡り歩いて5球団…加藤英司、古巣の同期から2000本安打

[ 2009年5月1日 06:00 ]

本塁打で2000本安打を決めた加藤のバッティング。後に日本ハムの打撃コーチとして片岡篤史や小笠原道大を育てた
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 【南海7-1阪急】真剣勝負の7球だった。6回、先頭打者の南海・加藤英司内野手と阪急・山田久志投手の対戦。外角のストレートに踏み込んだ加藤のバットが一閃。打球は大阪球場の右中間へ高々と舞い上がった。
 打球の行方を確認しながら、ゆっくりと走る加藤。プロ19年目、打った瞬間の感触で落下点はほぼ分かっていた。スタンド中段に飛び込むシーズン2号本塁打は、同時に通算2000本安打のメモリアル弾となった。

 スタンドの歓声が耳に入らないかのように、淡々とダイヤモンドを回った。三塁を回った時、マウンドの山田と目が合った。目深にかぶったグリーンのヘルメットのつばを少し上に上げ、加藤は視線を山田に投げた。山田のほおが心なしか緩んだ。68年(昭43)、阪急入団のドラフト1位山田と2位の加藤。「いい思い出ができた。ありがとう」。2人にだけ分かるグラウンド上のあいさつだった。
 カーブを2球投げてカウント2-0と追い込んだ山田。その後はすべてストレート勝負だった。加藤も山田の心意気に応えた。追い込まれるとミートを心がけるいつもの加藤の打撃スタイルではなく、フルスイングで山田のストレートを弾き返した。
 「真っ直ぐ勝負をしてくれた。永い間、阪急で一緒にやってきた山田から2000本を打てたのは、運命というか、ひと言では言い表せない…」と感無量の加藤。山田は「真剣勝負だった。よく踏み込んで打ったよ。複雑な気持ちもあるけど、思い出すのは一緒にやっていた頃はよくアイツのバットで勝たせてもらったということかな」。山田に遅れること5年。試合終了後、加藤はようやく名球会入りの象徴のブレザーに袖を通すことができた。
 「回り道しおったから、遅すぎたくらいや」と阪急入団時のボスだった西本幸雄監督は苦笑。若手の加藤、山田らをしごきにしごいて後にリーグV4の礎を築いた名将からしてみれば、ここ数年の愛弟子の足踏み状態はもどかしかった。83年に球団との感情的なトラブルもあって広島に移籍。パ・リーグで首位打者2回、打点王3回のスラッガーもセ・リーグの水が合わず、加えて肝炎を患い、12年続けていた100安打以上の記録も途切れ、1年で近鉄へトレード。近鉄での2年間は欠場1試合と復活を印象付けたが、チームの新構想から外れた。
 失意の加藤に声をかけたのは子供の頃から憧れていた巨人。残り36本の2000安打を「巨人のユニホームを着て達成してみないか」という殺し文句に誘われるように、家族で東京に転居した。
 しかし、働き場所は主に代打。4ないし5回打席に立って結果を残すタイプの加藤にとってひと振り稼業は難しかった。結局23安打止まりで、大台には13本足りないまま終わった。
 このまま引退、の2文字が頭をよぎった。そんな時、力になってくれたのは、阪急の同僚であり、恩師だった。“花の43年組”として阪急入りした福本豊外野手は、一時犬猿の仲になったことを忘れ「チャ(加藤のニックネーム、ザ・ドリフターズの加藤茶に由来)に行く場所がないんなら、ウチで2000本飾らせてやるのがスジやないけ」と球団上層部に直談判した。
 西本元監督は訪ねてきた愛弟子のためにひと肌脱いだ。在阪球団に顔が利く球界の長老は「ちょっと待っとれ」と別室に入り、数分間電話をかけた。その3日後、新聞にこんな見出しが躍った。「加藤英、南海入り」。
 阪急、近鉄、あまりいい思い出のなかった広島のユニホームでさえ、大切にしまっておいた男が、憧れだった巨人のユニホームを燃やして再び関西へと戻った。背中には2年前の85年に急死した久保寺雄二内野手が付けていた背番号7。「ホークスに骨を埋める」と覚悟を決めての87年のシーズンだった。
 「ゴミになるまで野球をやり続ける」としていた加藤だが、2000本を達成したシーズンをもって引退。最後の試合はプロ野球選手として鍛え育まれた、阪急の本拠地・西宮球場だった。フル出場し、第3打席で現役最後の安打となる2055本目をレフトに打った。「オレは幸せ者や」。悔いなくユニホームを脱ぐ気持ちの整理ができた加藤は、手渡された最後の安打のボールをスタンドへ惜しげもなく投げ入れた。

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