日めくりプロ野球 5月

【5月6日】1978年(昭53) 悩み解決!若松勉、球団初の3イニング連続本塁打

[ 2009年5月1日 06:00 ]

73年7月21日、オールスター第1戦でMVPを獲得し、トロフィーに囲まれる若松。通算2173安打。ヤクルト監督として01年に日本一
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 【ヤクルト14-5大洋】打率2割2分7厘。前年の首位打者がゴールデンウイークが終わろうとしている時期に来ても、一向に調子が上がらなかった。「試してみるか…」。打撃には独自のスタイルを持つ、ヤクルト・若松勉中堅手がその気になったのは5回の3打席目だった。
 「インパクトの瞬間に手首をこねている。もっと球を十分呼び込んでポーンと弾き返す要領で打ってみたら?」。スワローズ唯一の日本人本塁打王、佐藤孝夫打撃コーチに試合前、アドバイスをもらった若松。カウント1-1から大洋・根本隆投手の内角直球を振り抜くと打球は右翼席へ一直線。4月14日の中日1回戦(神宮)以来、16試合ぶりに飛び出した2号アーチとなった。

 「これで感覚をつかんだ」という若松は、続く6回今度は関本充宏投手からシュートを逆らわず左へ運ぶ2点弾。さらに7回には苦手なタイプのアンダーハンド、田中由郎投手からカーブをうまくバットに乗せて試合を決定付ける3ランホームラン!プロ野球5人目、球団初の3イニング連続本塁打に若松は首をかしげながらダイヤモンドを一周した。
 「オレは一体何を悩んできたんだろう」。スランプは太もも痛や右手首のけんしょう炎の影響もあったが、一番大切な球を呼び込み、下半身を使って打つという自分の基本スタイルを忘れていた。それを佐藤コーチのアドバイスを実践することによって思い出した3ホーマーだった。
 14得点中6打点の背番号1はヒーローインタビューに呼ばれると、「遅ればせながらながら、スタートします」と復活を宣言。以後、若松の打率は急上昇。最終的に3割4分1厘となった。2年連続のリーディングヒッターは逃したが、球団創立29年目で初優勝したヤクルトをけん引した功績を称えられ、MVPを獲得。最高のシーズンとなった。
 首位打者2回、3割以上12回の若松は、通算打率3割1分9厘1毛で4000打数以上でのプロ野球日本人選手の中で1位。その一方で本塁打に関するさまざまな記録も保持している。
 3イニング連弾の前年77年6月13日の広島13回戦では代打で登場し、前日に続き2試合連続の代打サヨナラ本塁打を放った。68年8月24、25日にヤクルトの前身サンケイの豊田泰光内野手が中日戦で記録して以来2度目。腰痛でスタメンを外れていた若松は「ひと振りだけならいけます」と広岡達朗監督に伝え、2本とも本当にひと振りで仕留め、チーム5年ぶりの7連勝をもたらした。
 通算本塁打220本の若松だが、サヨナラ本塁打8本は巨人・王貞治一塁手と同数の歴代2位。1位の野村克也捕手(南海ほか)の11本には及ばなかったが、その勝負強さは天才的であった。
 70年ドラフトで電電北海道から3位指名も1メートル68の体でやっていくのは自信がないと、当時の中西太ヘッドコーチとスカウトが北海道を訪れても親戚の家に閉じこもり、雲隠れしてしまった。説得されてプロ入りしたものの、自慢のバッティングは中西コーチから欠点を指摘された。「バットが遠回りしている。プロの球について行くには、下半身を使わないと。引っ張り一辺倒は行き詰まる」。
 バットコントロールは上半身でするものと思っていた若松にとっては、思いもよらないアドバイスだった。以後、腰を意識しながら、無理に引っ張らず広角に打つことを第一に打席に入った。2年目で首位打者を獲得すると、元来のパンチ力に技術が加わり、逆方向の左翼にも本塁打が打てる左打者となった。
 中学まではノルディックスキーの選手。中西道場で道場主の中西コーチが音を上げるほどの練習量は、スキーで鍛えた下半身の強さがあったればこそ。“北海道出身の選手は大成しない”といわれるジンクスを見事に破ってみせた。

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