日めくりプロ野球 5月

【5月3日】1971年(昭46) 9連敗救ったのは9打数無安打の一発 そこから始まった世界記録

[ 2009年5月1日 06:00 ]

パンチ力には定評があった作道。愛媛・新田高から社会人を経てプロ入り。通算48安打、5本塁打
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 【東映14-8ロッテ】東映(現日本ハム)が東京スタジアムでのロッテ5回戦の延長10回に5者連続本塁打を放った。現在に至ってもメジャーリーグでさえ記録されていない驚きのホームラン記録は、かつてのニックネーム“駒沢の暴れん坊”のキャッチフレーズの名残を残す、張本勲外野手ら5人による夕暮れ時の競演だった。その口火を切ったのは、陰では“若年寄”といわれた、印象の薄い8年目28歳の外野手だった。

 6-6の同点で迎えた延長10回、2死満塁。東映・田宮謙次郎監督は思案に暮れていた。9番皆川康夫投手の打順で当然代打の場面だが、野手でベンチ残っているのは開幕から9打数無安打の作道烝(さくどう・すすむ)外野手のみ。投手が打席に入るよりはマシかもしれないが、ここで皆川を代えると頼れるのは3連投となる金田留広のみ。得点が入らなかった場合、疲労度から考えて、ロッテ打線につかまりサヨナラ負けとなる可能性が高かった。負ければ球団ワーストの10連敗。田宮監督は一度天を仰いで決断した。
 「ピンチヒッター、作道」。口には出さずとも、東映ベンチはその名前を聞いた時点であきらめムード。10回をなんとかしのぎ、11回に1番から始まる攻撃に期待する雰囲気が漂った。
 ロッテベンチの大塚弥寿男捕手に対する指示は「インコースを突け。作道ならそれで打ち取れる」。作道が内角球を苦手にしているのは、データからはっきりしていた。マウンドの佐藤元彦投手はウイニングショットに縦に割れて内角に落ちるカーブを選んだ。
 今までの作道なら空振りかポップフライだった。それがやや甘かったとはいえ、フルスイングした打球は左翼へクングン伸びた。背走する岩崎忠義左翼手のはるか頭上を越えてスタンドイン。通算4号、初のグランドスラムが飛び出した。グラブをはめかけていたナインがそれを放り投げて一斉に飛び出すと、優勝が決まったかのようにはしゃぎながら背番号29の生還を待った。もみくちゃにされユニホームが破れそうになっても笑顔の作道。ベンチに戻ってもチームメイトにポカポカ頭を叩かれた。
 プロ野球界で見たことのない華やかなホームランショーはここから始まった。「狭い東京スタジアム。少々のリードでは強力なロッテ打線に追いつかれる。もう1度チャンスを作ろう」とした1番大下剛史二塁手が左翼へ2号ソロ。「半分冗談で3本目を狙った」2番大橋穣遊撃手も左翼へ5号弾。ここまで無安打の3番張本勲左翼手は「オレで終わったら格好悪い。続くつもりで」狙った6号ソロも左翼席に入った。
 そして4番大杉勝男一塁手。「稼ぎ時だと思って、完全に狙ったよ」とこの日2本目の6号ソロ。2つのエラーが重なり、奇跡的に5点を取って延長戦に入った9回の東映の攻撃も信じられなかったが、延長戦での5者連続本塁打はもっと信じられなかった。
 1発目を放った作道は「結果よりも自分の納得できる打席にしたかった。今までの僕なら打てなかったボール」と振り返った。64年捕手として入団。途中外野に転向したものの、2軍暮らしが長く、前年70年にようやく1軍で66試合に出場。3本塁打を放った。しかし、71年は2軍スタート。以前は今年もダメか…とあきらめていたものだが、「後輩が次々と1軍に上がっていくのに悔しくないのか!」とコーチに一喝されたことでようやく目が覚めた。
 1軍昇格後は人が変わったように野球に打ち込んだ。象徴的だったのが、4月17日に後楽園でのロッテ戦が雨天中止となった時のこと。チームの練習も休みになり、全員自由行動が許されたが、作道だけは球場に残り、大鏡の前で素振りを繰り返した。そこに通りがかったのが張本だった。口数の少ない男が大先輩に向かって言った。「スイング、見てくれませんか」。
 目の色が違ってきた後輩に張本は1時間近く付きっ切りで指導。そして「左肩が突っ込みすぎている。これじゃ内角は対応できない」。このアドバイスが世界記録につながるアーチとなった。
 日本ハムになる前の日拓を最後に73年に引退。フライヤーズの愛称が消えるのとともに球界を去り、ファイターズのユニホームに袖を通すことはなかった。

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