日めくりプロ野球 5月

【5月1日】1966年(昭41) “アテ馬”先発佐々木吉郎 気がつけば史上8人目の大記録

[ 2009年5月1日 06:00 ]

大型投手として将来を期待された佐々木吉郎だが、実働8年23勝34敗で引退した
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 【大洋1-0広島】広島の代打阿南準郎内野手の力ない飛球が大洋・黒木基康右翼手のグラブに収まると、2万2500人の大入りとなった広島市民球場の観客から大きなため息が漏れた。愛するカープが敗れて怒声を飛ばしたいところだが、ここまで完ぺきに抑えられるとその気力もなかった。
 大洋先発の佐々木吉郎投手は投球数102球7奪三振で無安打無四死球無得点の完全試合を達成した。シーズン6試合目で初先発、64年9月23日の巨人25回戦以来、586日間勝ち星に見放されていた右腕が史上9人目となる大記録を達成しようとは、2時間8分前誰も思わなかった。

 「点を取ってくれるまで、とにかく0点に抑えようと必死だった。点を取った後は、ストレートが走って、スライダーがいいコースに決まっていたので、いける気がした」と佐々木。その1点も佐々木が決めたバスターエンドランでチャンスが広がり、犠飛で1点が入ったもの。8連敗中の大洋を救ったのは、エースでも打線の爆発でもなく、過去4年7勝19敗の“契約金ドロボー”と陰口をたたかれた男だった。
 投手と打者の相性をとても気にした三原脩監督は「偵察メンバー」、いわゆる“アテ馬”を使って相手の出方を見る作戦をよく使った指揮官だった。この日も先発投手が対戦する広島に読まれていると知ると、先発予定の左腕小野正一を使わず、右腕の佐々木に変更した。ダブルヘッダー第2試合の試合開始15分前、交換するメンバー表の9番投手の欄を三原自ら慌てて書き換えた。
 佐々木にお鉢が回ってきたのには理由があった。第1試合、リリーフとして登板するためブルペンで4度も肩を作っていた。登板機会はなかったが、別所毅彦投手コーチの「佐々木なら出来上がってます」のひと言で三原監督は腹を決めた。別所コーチは佐々木に言った。「1回だけでいいから行ってくれ」。相手が右の佐々木が先発なら、広島は代打で左打者を出してくるだろう。そうしたら小野とスイッチだ。当時はよくある選手起用のパターンで、これが大洋ベンチの目論見だった。
 1番大和田明中堅手を二飛に仕留めた佐々木だが、2番古葉竹識二塁手にはレフトへ鋭いライナーを飛ばされた。弾道は低かったが、フェンスも低い市民球場ならスタンドインしそうな打球だった。これを江尻亮左翼手がランニングキャッチ。いきなりドキッとする場面だった。
 3番興津立雄三塁手から三振を奪うと、佐々木はタオル片手に「上がらせてもらいまーす」とロッカールームへ消えようとしたが、三原監督が声をあげた。「1本もヒットを打たれておらんのに代えられるか」。大記録への道が開けた瞬間だった。
 古葉の当たりを含め、27アウトのうち半分近い13アウトが外野への打球。4番山本一義左翼手にもフェンス手前1メートルの大飛球、9回の代打森永勝也外野手の右翼線ギリギリのファウルなどヒヤヒヤの場面は何度もあったが、最後まで幸運が付いて回った。
 秋田商高時代は1メートル80、90キロの大型捕手。社会人日本石油に入ってから本格的に投手に転向すると62年の都市対抗で43イニング連続無失点の大会記録を作り、大会MVPに贈られる橋戸賞を受賞。優勝記念のハワイ旅行から帰国してすぐに大洋と契約。契約金は当時としては高額の3000万円だったといわれる。
 期待の右腕もルーキーイヤーに0勝4敗とつまづくと、その後は敗戦処理的な役回りが多く、完全試合を達成したシーズンは「今年ダメなら引退」と覚悟して臨むほどだった。
 完全試合の後も7勝を挙げた佐々木はこの年8勝。ようやくこれからという時に右肩を故障、68年には交通事故にも遭った。完全試合の時のような幸運は訪れず69年を最後に引退。とんかつ店を経営後、地元秋田の社会人チームTDKの監督・コーチを歴任。08年12月21日、敗血症のため68歳で死去。大洋から横浜にチーム名は変わったが、佐々木以来43年、完全試合を達成したホエールズ、ベイスターズの投手はいない。
 

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