日めくりプロ野球 5月

【5月21日】1982年(昭57) “特攻隊”竹之内雅史、突然引退「ぶつかる闘志なくなった」

[ 2008年5月14日 06:00 ]

背中を丸めてみたり、バットを真後ろに構えてみたりと変則打法で人気を博した竹之内雅史外野手。清原に抜かれるまで死球王だった
Photo By スポニチ

 打てなくて突然退団した助っ人もいたが、死球が怖くなってバットを置いたベテラン選手が阪神にいた。79年、田淵幸一捕手と古沢憲司投手とのトレードでライオンズから阪神入りした竹之内雅史外野手はこの日、突然引退を発表した。

 その2日前の19日、甲子園でのヤクルト7回戦。代打で登場した竹之内は左腕・梶間健一投手の前に空振り三振に倒れた。「あんな緩いボールが体が開いて打てないなんて…。打てなきゃぶつかってでも塁に出る闘志もない。オレはもうダメだ」。
 68年、“中西太二世”と騒がれ西鉄に入団して以来、「猫背打法」「かつぎ打法」など、独特の打撃フォームはころころ変わりながらも一貫したテーマだった「踏み込んで打つ」という自分のバッティングスタイルが全くできなくなったことで、バットを置く決意が固まった。
 通算1371試合出場、1085安打216本塁打606打点で打率は2割4分9厘。西鉄、阪神で4番を張ったこともあったが、打撃タイトルには縁がなかった。
 その竹之内の勲章は166を数えた日本一の死球数だった。05年に巨人・清原和博内野手(現オリックス)に抜かれるまで、20年以上記録を保持し続けた。付いた別名が“特攻隊”。西鉄、太平洋クラブ時代に南海・野村克也捕手兼任監督が竹之内が打席に入るたびに「この特攻隊。また当たりに来たのか」と、ボヤいたことで球界に広まった。
 狙って当たりに行ったことは3度あるという。無死球記録を続けていたロッテ・小山正明投手、厳しいシュート攻めをしてきた南海・三浦清弘投手、シンカーに手も足も出なかった阪急・足立光宏投手。いずれも「そうするしか出塁できなかった」と竹之内。15年間で最多死球は7シーズン。パ・リーグ時代の142死球は今でもリーグ記録である。
 引退の弁で「ぶつかる闘志もなくなった」と話したのも、ウリがなくなってはプロで生きていけないという考えと同時に、打撃の調子のバロメーターが死球だったからだ。「死球の多いときは打撃の調子も良かった。当たりに行くこともできなくなったら、いよいよおしまいだ」。
 死球は竹之内のバッティングスタイルと背中合わせの産物だった。「体が開いて打てるのは長嶋(茂雄三塁手、巨人)さんぐらい。あんな天才のやること、ワシにはできん。とにかく踏み込んで打たんと、力のある打球は打てない。それで死球を食らっても仕方がない」。
 骨折、打撲とケガは多かった。それでも1000本以上の安打が打てたのは、この攻撃的な心構えにあった。
 引退後は阪神打撃コーチに就任するも87年、吉田義男監督との確執が伝えられ6月に途中退団。ダイエーコーチを経て、91年から大洋、横浜の打撃コーチと2軍監督を歴任。ベイスターズでの“ヒット”作品はファームでくすぶっていた鈴木尚典外野手。天性の打撃センスを生かし、97、98年に連続首位打者獲得の下地を作った。
 台湾・統一で指導した後、05年からは近畿学生リーグに所属する羽衣国際大学野球部の監督に就任。07年春に3部リーグで優勝し、2部に昇格を果たした。その一方で日本三大名湯・有馬温泉の旅館に勤め、送迎係の責任者としての顔も持つ。野性味あふれる個性的な野球人だった男は、人生においても個性的で人が簡単に真似のできない生き方をしている。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る