日めくりプロ野球 5月

【5月7日】1978年(昭53) “玉三郎”三浦広之 1軍デビュー間近

[ 2008年4月30日 06:00 ]

77年12月23日、高校球界を代表する松本祥志(左)と三浦広之(右)は阪急の入団発表で上田利治監督に激励された。その後方には日本一のペナントが誇らしげに掲げられていた
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 大型連休中に5連勝し、まさに“黄金週間”となった阪急ブレーブス。がっちり首位の座を固めるた、上田利治監督はファームの新人投手のことも気を配るほど余裕があった。

 その筆頭はドラフト2位入団の福島商高出身の三浦広之投手。端正な顔立ちから“球界の玉三郎”と呼ばれた1メートル85の本格派右腕はこの時点までウエスタンリーグで3試合連続完封、30イニング無失点記録を続けていた。5月7日付のスポニチは「勇者の星 1軍へ最終テスト」という見出しで、三浦の活躍ぶりを伝えている。

 当初は「何年に1人の逸材。下でゆっくり育てる」との方針を示していた上田監督も「これだけ結果を出していれば下に置いておくのはもったいない。今からでも新人王を狙わせたい」と方針変更。9日のクラウン戦(平和台)での投球次第で1軍昇格を示唆した。
 6回まで2安打無失点の三浦。南海・藤田学投手の4試合連続完封、広島・有田哲三投手の37回3分の2無失点のウエスタン記録更新もほぼ確実とみられる完璧な投球をみせた。しかし「シュートが真ん中に入った」(三浦)という85球目を吉本博捕手に左中間スタンドへ運ばれ2点を失った。試合は5-2で阪急が勝ち、三浦は4勝目を挙げたが、記録達成はならなかった。
 それでも上田監督の三浦への評価は高く、12日に1、2軍の首脳会議が行われ、三浦昇格をめぐって意見が交わされた。結論はもうしばらくファームということになった。「もう少し下で体を作らせたい。上に行けば、どうしても走り込み不足になる。下半身はまだまだだし、あの程度のカーブなら1軍では打たれる。磨けば磨くほど力をつける時期なのでもう少し待ってもらいたい」という西村正夫2軍監督の考えが通った形となった。
 上田監督の三浦への惚れ込みようはドラフトの時からだった。第59回全国高校野球選手権の福島県大会、続く甲子園の3回戦対熊本工高戦の2回まで55回連続無失点の快記録を打ち立てた三浦は当初、明治大学進学の予定だった。それでも阪急は夏の甲子園優勝投手・松本祥志(東洋大姫路高)を1位指名した後、三浦を2位で強行指名した。
 難攻不落と思われた三浦に対し、三輪田勝利スカウトは18日間福島に連泊し説得。さらに上田監督は3年連続日本一のご褒美であるハワイ旅行から帰国した足で福島を訪問。ホノルルで買った高級革靴とグローブを土産に三浦を口説いた。その熱意はかなりのもので、日を改めて飛行機と東北本線を乗り継いで直談判に訪れたこともあった。
 進学を勧める周囲とは逆に、三浦自身の気持ちはプロ入りに傾いていた。上田監督からもらった「一歩々々」と書かれた色紙を見ながら「プロでやるなら早い方がいい」と進学を翻し、阪急入団を決意した。
 松本、三浦の高校球界左右投手の両看板を獲得した上田監督は通算350勝の米田哲也投手と同254勝の梶本隆夫投手の阪急を支えた偉大なOBを引き合いに出し「2人は第2のヨネカジになるだけの才能がある」と太鼓判を押した。
 背番号は三浦が22、松本が33。「(77年に)新人王の佐藤義則(投手)が11なので、縁起をかついで2人はゾロ目を用意した。松本の33は梶本投手コーチの現役の番号でコーチになっても付けていたもの。快く譲ってもらった」と上田監督。三浦の22番も先につけていた選手から球団が返上させたもので、ブレーブスは最高の待遇で高校生ルーキーを迎え入れた。
 待望の三浦1軍デビューは6月24日。西宮球場でのロッテ前期11回戦に先発し6回を3安打6三振、山崎裕之二塁手の本塁打による1失点に抑え勝利投手となった。投球数は85。うちカーブは17球でほとんどストレート勝負でロッテ打線を牛耳った。既に前期優勝を決め、阪急にとっては消化試合だったが、上田監督はベストメンバーを組み、7回からはエース山田久志投手を送り込んで必勝を期した。
 日本一の勇者軍団の全面バックアップに「僕は幸せ者です」と繰り返した三浦。「一級品というより特級品。将来は日本を代表する投手や。新人王取らせるで」と上田監督は自信作に舌も饒舌だった。
 高卒ルーキーの初登板初勝利はドラフト制以降、堀内恒夫(巨人)、太田幸司(近鉄)らに次いで4人目(当時)。現在でも松坂大輔(西武)、ダルビッシュ有(日本ハム)らに08年4月26日にソフトバンク相手に勝ったロッテ・唐川侑己投手まで15人しか達成していない。
 1年目は8試合に登板し4勝1敗1S。新人王は5勝8敗3Sの南海・村上之宏投手が獲得した。三浦の5倍にあたる40試合に登板し防御率3・61の安定度が認められたものだった。
 三浦は79年に7勝(10敗)で、オールスターにも選出された。球宴では大阪と神宮での第1、3戦に登板。3回を投げ、4安打2三振2失点。掛布雅之三塁手(阪神)を三振、王貞治一塁手(巨人)を二ゴロに仕留めた。
 三浦が右肩痛に悩みだしたのが3年目の80年ごろから。この年3勝3敗の成績を最後に1軍のマウンドから消えた。アンダーハンドへの転向など、再起を試みたが83年に引退。プロゴルファーを目指し転身した。現在は大阪市でティーチングプロとして活躍する一方でツアー出場を目指している。

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