日めくりプロ野球 5月

【5月6日】1987年(昭62) “赤鬼”ホーナー1試合3本塁打!驚愕の2日で4発

[ 2008年4月30日 06:00 ]

本場メジャーの実力を見せつけたヤクルト・ホーナー。1試合3発の大当たりに驚く、丸山完二コーチとは対照的に余裕の表情でダイヤモンドを回った
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 【ヤクルト6-3阪神】こどもの日に名刺代わりの1発を神宮の夜空に打ち上げると、翌日はエンジン全開で3発スタンドに放り込んだ--。ヤクルトの新外国人選手、ボブ・ホーナー三塁手はゴールデンウイーク明けの阪神5回戦でソロ本塁打3本を左に中堅に飛ばし、9年間でメジャー通算215本の実力を遺憾なく発揮した。

 まずは1発目。1回、阪神のエース池田親興投手はカウント2-0と追い込んだが、3球目のカーブは真ん中に入った。907グラムの軽量バットが反応し、快音を発した打球は左翼上段へ一直線。佐野仙好左翼手は一歩も動けなかった。
 大リーグ215本塁打中、約8割がレフトへ引っ張った打球。これぞホーナー、という一発に「米国の広い球場でもホームランさ。カンペキ、自分のタイミングで打てた」と上機嫌のコメントを広報担当者に伝えた。
 四球をはさんで、2発目は5回。走者なしでまた池田からだった。ボールになるスライダー、シュートで誘うが、平然としているホーナーは乗ってこない。1-2からの4球目。内角高めを突き、上体を起こそうとした直球が甘く入った。97キロの体格のイメージとは違ったコンパクトなスイングで放った左中間への大飛球は手応え十分。120メートル弾となって超満員の阪神応援団席に落下した。「打った瞬間入ると思った。でもイケダの失投だろう。甘い球だった」。間違ったら、もっていくぜ。相手投手に自分の怖さを見せつけたアーチだった。
 そして4万5000人の観衆を驚愕させたのが7回の3発目。マウンドには依然として池田が立っていた。カウント2-3からの7球目は外角高めのストレート。見逃せばボールだったが、四球を嫌ったホーナーは手を出した。打球はセンターへのライナー。田尾安志中堅手が足を止めた。センターライナーで1試合3ホーマーは残念ながら、と思った瞬間、田尾が急に背走し始めた。打球はグングン伸びてバックスクリーンの上部に直撃した。
 ネクストで打順待ちをしていた4番・杉浦享中堅手が直撃弾をこう解説した。「センターライナーかあ、と思ってたら二塁ベースを過ぎてから打球がホップした。あんなにグーンと伸びた打球は見たことがない。中西(太、元西鉄)さんがそんな打球を打ったことがあるという話を聞いて信じられなかったけど、ホーナーの打球を見て初めて実感した」。「投げる球がない。甘く入ると全部もっていかれる」。打たれた池田はひと言だけつぶやくとうなだれた。
 前日5日に仲田幸司投手から放った右翼への1号と合わせ、全方向に2日で4発。「100本は打つね。保証する」と阪神のランディ・バース一塁手が舌を巻いた鮮烈デビューを果たした、助っ人の“効果”はあらゆる面に波及した。
 翌7日、ホーナーは3四球と勝負してもらえない中、積極果敢な走塁でチームの勝利に貢献。阪神6回戦に9-5で勝ったスワローズはシーズン初の3連勝。開幕直後を除いては81年9月以来、6年ぶりに勝率5割に乗った。
 観客動員阪神3連戦で計15万人となり、平均3連戦で6万人程度のカードが一気に2・5倍の入りとなり、営業サイドはホクホク顔。巨人戦以外は視聴率が2、3%のヤクルト戦のテレビ中継も5月10日に急きょヤクルト-広島戦を中継したテレビ朝日が18%を記録した。
 金髪でメガネの奥の瞳はいつも獲物を狙っているような鋭い目つき。何に興奮しているのか、顔を赤らめながらプレーする姿に付いたニックネームは“赤鬼”。バースが予告した100本塁打には届かなかったが、相手投手が勝負を避ける中で93試合27本塁打73打点、打率3割2分7厘はメジャーの大物スラッガーとしての実力を発揮したといえる数字だ。
 高校卒業時にアスレチックスの15巡目でドラフト指名されたが拒否し、アリゾナ州立大学へ進学。78年6月の日米大学野球では全米選抜の4番で6試合連続本塁打を放った。その1カ月後にはドラフト1位指名のブレーブスに入団。日本と違い契約金がほとんどないのが普通だった米国球界で破格の17万5000ドル(約2600万円、当時)が用意された。マイナー経験なしで、即ブ軍の正三塁手として活躍。シーズン途中からの89試合で23本塁打を放ち、ナ・リーグ新人王に輝いた。
 普通なら来日する可能性がなかった超大物が、なぜヤクルト入りしたのか。87年にフリーエージェントとなり、3年契約で6億円を超す条件を提示したブレーブスより、優勝できるチームに行く決意をしたホーナーだったが、買い手が付かなかった。長距離砲にしては器用な打撃の評価は高かったが、全くと言っていいほど練習しない守備と口うるさいトラブルメーカー的な存在だったため、3億円近い高額年俸を払ってまで手を挙げる球団がなかったのだ。
 新外国人を探していたヤクルトは契約寸前までいったメジャーリーガーが覚せい剤所持で米国で逮捕されると、行く先のないホーナーに目を付けた。ホーナーには約2億6000万円の契約金と年俸を用意したとされるが、実際には3億円以上だったとも言われている。
 破格の年俸に加え、ヤクルト製品のCM出演料に著書「地球の裏側にもうひとつの野球があった」の原稿料など、しめて約5億円以上は稼いだといわれるホーナーは翌年、一度は合意したヤクルトとの契約を白紙に戻し、1億円程度の年俸でカージナルスに入団。「日本は嫌いだ。戻らなくていいなら、いくらでもいい」と泣きついたというのがその真相という。
 そのカージナルスでは60試合出場にとどまり、打率2割5分7厘、3本塁打33打点に終わった。左肩痛でバッティングに影響を及ぼし、1年で自由契約に。新天地としてオリオールズに拾われたが、肩の痛みはとれず89年に引退を余儀なくされた。
 ホーナーが再びヤクルトとかかわったのは93年。野村克也監督4年目のユマキャンプで臨時打撃コーチとして招かれた。「打撃は80%が頭で決まる。投手の配球を読み、データを駆使して打つ」と自論を展開。データ重視のID野球を標榜する野村監督をして「私と同じ考え。わが意を得たり」といわしめた。ヤクルトはこの年15年ぶりに日本一を達成。ホーナーのバッティング教室も少なからず貢献したといえるだろう。

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