日めくりプロ野球 5月

【5月4日】1992年(平4) 遅咲き男、八重樫幸雄が放った友に捧げるサヨナラヒット

[ 2008年4月27日 06:00 ]

下積みが長く、なかなか正妻に手が届かなかったヤクルト・八重樫幸雄捕だが、丈夫で長持ちの言葉通り、長期の戦線離脱は78年の1シーズンしかなかった
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 【ヤクルト2-1大洋】ヒーローインタビューは24歳の若きエース、岡林洋一投手に譲った。それよりも苦楽を共にした戦友のために打てたことが嬉しかった。
 現役23年目、40歳の大ベテラン八重樫幸雄捕手は大洋4回戦(神宮)で岡本透投手からサヨナラ中前適時打を放ち、チームは5連勝。ヒーローインタビューを固辞した八重樫はひと言だけつぶやいた。「いい日に打てた。見ててくれたかな」。

 それはスタンドにいるはずだった仲間への言葉だった。4日前、東映、ヤクルトで活躍しセパ両リーグで1000本以上の安打を放った大杉勝男内野手が他界した。
 「病気と闘い続けて、オレは生きるぞ、っていつも言っていた。ゴールデンウィークの試合は30分くらいしか球場にいられないかもしれないけど、必ず見に行くって楽しみにしていました」。大杉夫人の言葉を聞いた八重樫は胸が熱くなった。対戦相手の大洋は大杉が90年に1年だけ打撃コーチを務めたチーム。舞台としては最高の場面でのサヨナラ打だった。
 78年(昭53)、ヤクルト初優勝の時、日本シリーズで4本塁打を放ちMVPを獲得した主砲・大杉とは対照的に、ケガに苦しみシリーズでは1打席しか立てなかった八重樫。「ハチ、頑張れ。きっといいことがあるから」と励まし続けてくれたのは心優しい4番打者だった。あれから14年。そのひと言を励みに八重樫はバットを握り続けてきた。
 “東北球界始まって以来の大型捕手”と評された、宮城・仙台商高出身の八重樫は巨人、中日、大洋、阪急など複数球団の激しい争奪戦の末、ヤクルトが69年のドラフト1位で交渉権を獲得した。担当スカウトが仙台に通い続けて、その熱意が通じた形となった。
 しかし、現場を預かる別所毅監督は希望を胸に入団したルーキーに外野転向を指令。71年から指揮を執った三原脩監督は三塁へのコンバートを命じた。
 大型捕手を内外野に移そうとした最大の理由は、同期入団の大矢明彦捕手(駒大)の存在が大きかった。正捕手不在のアトムズはドラフト7位ながらも、鉄砲肩の大学出の即戦力捕手を起用することになり、育成に時間のかかる高校出の捕手を構っている時間はなかった。ベテランになってからは「ドラえもん」の愛称で親しまれるほどずんぐりむっくりの体型だった八重樫だが、若手のころは細身でフットワークのいい俊足の選手。天性のバッティングセンスを生かすために、首脳陣はコンバートを急いだ。
 「投手以外のポジションは全部やった」(八重樫)と遠回りをした男はすべてにおいて遅咲きだった。初めて100試合以上に出場したのは入団15年目の84年。この年、監督推薦でオールスターにも初出場。選出直後の7月15日、巨人17回戦(後楽園)でファウルチップで右手人さし指にひびが入るケガをしたが「代打ならいける」と強行出場。1打席だけ立ち三振に終わったが、15年かけて球宴出場にたどりついただけに出場辞退はどうしてもできなかった。翌85年、初めて打率3割台(3割り4厘)をマークし、球宴に連続出場。地元神宮球場での第1戦で、西武・渡辺久信投手から左前打を放ち、前年の悔しさを晴らした。
 八重樫が持つ史上“最遅”の記録が通算100号本塁打。90年6月22日、甲子園球場での阪神10回戦で仲田幸司投手からの一撃は21年目での大台達成だった。89年夏から用意されていた花束は生花から造花に変わってしまうほど、待たされた続けたメモリアルアーチ。ホームランが出ても出迎えることのない野村克也監督が「お祝いごとやからな」と特別にベンチから出てきた。
 「長持ちの秘訣は辛抱」と八重樫は言う。78年、ケガで戦列を離れた八重樫が1軍に復帰し試合前の打撃練習で、広岡達朗監督から言われたひと言が忘れられない。「お前は打たなくていいよ」。
 戦力として扱われていない悔しさを味わい、そこから目の色が変わった。万年補欠からの脱出を誓いバッティングフォームもリードも研究。中西太打撃コーチが就任すると、二人三脚で極端なオープンスタンスの構えを会得して、才能をようやく開花させた。
 93年、2度目の日本一を経験して引退。以後、08年までコーチ、2軍監督として一度もユニホームを脱がず、ヤクルト一筋39年の野球人生が続けた。

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