日めくりプロ野球 4月

【4月23日】1980年(昭55) テスト生から19年 松原誠 無冠の帝王の2000本安打

[ 2010年4月1日 06:00 ]

2000安打を達成し、声援に応える松原。視線の先には母親が…
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 【大洋5―1阪神】低い弾道で白球が左翼スタンドに吸い込まれるように飛んでいった。大洋・松原誠一塁手の通算320号、シーズン1号本塁打は特別な一発だった。
 阪神・長谷川勉投手から放った初回の逆転3ランこそ、プロ入り通算2000本安打のメモリアル弾だった。73年4月22日の巨人5回戦(後楽園)で小川邦和投手から放った1000本安打も実は本塁打。節目は2本とも野球の華、ホームランというのが、現役19年打撃タイトルなしの“無冠の帝王”らしからぬ派手なシーンだった。

 本拠地横浜スタジアムでの達成、大洋球団初の大記録達成に、ホームベースを踏むと大きな花束が贈られた。一塁側のスタンドに向かって両腕を上げ、しばらく微笑んでいたのには理由があった。視線の先には女手一つで育ててくれた母親がいた。「月並みですが、丈夫に生んでくれた母にまず感謝したい」。2000本安打の感想を聞かれた時、第一声は温かい思いやりの言葉だった。
 学生服を着た高校3年生が川崎球場にバット1本を担いで現れたのは1961年(昭36)の8月のことだった。当時の大洋・三原脩監督らが見守る中、松原は打撃投手が投げる球をポンポンスタンドに放り込んだ。大洋のスカウトが埼玉・飯能高のスラッガー捕手に目をつけ、首脳陣の前でテストさせたのだった。
 4番を打つ桑田武三塁手の後を継ぐ長距離砲を探していた球団は松原を合格にし、月給3万円で背番号38を与えた。これぞ、と思った新人をすぐに使うのが三原流。ルーキーイヤーから1軍に入り、初安打は62年5月8日の中日4回戦(中日球場)で板東英二投手から打った中前打だった。「その日は興奮して眠れなくて、ホテルのロビーをウロウロしながら母親に手紙を書いた」ほど感激した。
 あれから19年。捕手よりも打撃を生かすために、三塁手をやったり外野をやったりと、あちらこちらコンバートされ、投手以外はすべてのポジションを経験。やっと一塁手としてレギュラーを獲得、オールスターにも選ばれるようになったが、巨人・王貞治一塁手がいるために、二塁を守って出場したことさえあった。
 「王さん、長嶋さんはいつも華やかなところで、お客さんも満員のところでやっている。お客さんもまばらな試合も多い大洋にいても僕は負けたくなかった。実際、守備に関して言えば2人に負けているとは思わない。だからダイヤモンドグラブ賞(現、ゴールデングラブ賞)
なんて信じない」。優勝にも、タイトル、表彰にも恵まれなかった松原はいつもこう話しては、自らを鼓舞していた。
 一塁で内野手からの送球を捕球する際に、両足を地面にくっつける“タコ足”といわれた捕球スタイルも王を意識してやっていたもの。そんな松原を一番認めていたのは王貞治その人でもあった。松原が2000本安打を達成したその日の夜、遠征先の九州からお祝いの電報を真っ先に届けたのが王だった。
 「次は2500本を目指す」と意気込んだ松原だが、翌81年に移籍先の巨人を最後現役20年でバットを置いた。通算2095安打。
大洋で経験できなかった優勝、日本一を最後に味わった上に、シリーズでは本塁打も放った。
 引退後は、大洋、巨人で打撃コーチなどを歴任。プロ野球選手会会長としても活躍。選手の最低年俸を180万円から倍の360万円に倍増させ、1000万円に満たない2軍選手が1軍で試合に出ると、出場数に応じて日給が支払われる制度を確立するのど、労働条件向上に尽力した。

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