日めくりプロ野球 4月

【4月23日】1970年(昭45) 日本記録の6イニング連続計6併殺打 池永正明、最後の快投

[ 2009年4月1日 06:00 ]

全盛期の池永の投球。プロゴルファーのジャンボ尾崎と同期入団し、1年目20勝10敗で新人王。67年には23章で最多勝。通算103勝65敗、防御率2・36
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 【西鉄10-0阪急】プロ6年目、23歳にして通算100勝を記録した右腕が巧さ際立つ投球をみせた。西鉄・池永正明投手は平和台球場での阪急3回戦に先発。7回まで5安打無失点に抑え、大量リードに守られシーズン3勝目を挙げた。
 コントロールの良さが身上の池永。走者を許しても、ゴロを打たせ併殺打に打ち取り、ピンチらしいピンチもなく、7回まで80球。楽々完封ペースだったが、投手の台所が苦しいライオンズでリリーフもこなさなければならない右腕に、就任1年目の稲尾和久監督は完封勝利よりも次の登板のことを考え、交代させた。
 2、3回の1死一塁をそれぞれ併殺で切り抜け、4回には先頭の森本潔三塁手、長池徳士右翼手に連打を浴びたものの、続く大熊忠義左翼手も併殺に仕留めた。5、6回も走者を許すもダブルプレーでしのぎ、これで日本記録に並ぶ1試合5併殺。7回にも西鉄の併殺網に引っかかった阪急は、6イニング連続計6併殺打の不名誉なプロ野球新記録を生み出してしまった。
 前年の69年に右肩を痛め、ストレートのスピードが落ちた池永。それでも18勝をマークしたのは、シュートとスライダーを決め球に使い、打たせて取る投球スタイルを確立したからだった。阪急・西本幸雄監督は「いつでも打てそうな球だから強引に行ってしまった。2回に5点を失い、打って取り返すしかなかったのも悪循環になった」と新記録の“背景”を力なく口にした。
 阪急打線はわずか2三振。池永の球が“打ちごろ”だったからこそ、謙虚になれず各打者が振り回した結果、スリークオーター右腕の術中にはまってしまったのだった。「ただ速い球を投げればいいというものではないことがよく分かった」と池永。肩を痛めたなりにプロの投手として生きる道を見出した試合だった。これからの目標は「10年で200勝」。新しい投球スタイルを身につけた右腕にとって達成可能な記録と周囲も疑わなかった。
 しかし、池永のプロ野球の記録は5月2日、ロッテ5回戦(東京)で先発の三輪悟投手の後を受け、5回3分の1を投げ4安打2失点で4勝目を挙げたのを最後にプツリと途切れてしまった。69年秋から球界に吹き荒れた、野球賭博に絡んだ八百長行為「黒い霧事件」に池永がかかわったとして、4日後の5月6日から出場自粛。5月25日に永久追放選手となってしまった。
 八百長に関係した元西鉄の先輩投手から100万円を突きつけられ敗退行為をするよう依頼された池永は、これを拒否。金銭には手もつけず、敗退行為にも加担せず、金も返そうとしたが、相手が受け取ろうとせず、手元に金が残ってしまった。これが“証拠”となってしまい、疑わしきは罰するという“野球界の常識”で池永はマウンドに立つ権利をはく奪されてしまった。以来、35年間。2005年4月25日に処分が解除されるまで、池永の名誉は回復されなかった。
 追放後の生活はあらためて触れるまでもないだろう。ただ野球のことがいつも頭から離れなかったことだけは間違いなかった。どんなに遠ざけよう、忘れようと思ってもできなかった。「青春のすべてを野球に捧げてきた。私には野球しかない」。
 処分解除後は追放後の生活の糧だったバーも閉店し、マスターズリーグで活躍したり、解説や野球教室で指導にあたるなど、往年の名投手は失った時間を取り戻すかのように、積極的にグラウンドに立っている。

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