日めくりプロ野球 4月

【4月11日】1976年(昭51) 初登板初勝利から連日の2勝目 その後の中日右腕

[ 2009年4月1日 06:00 ]

コーチ時代、若手にノックをする早川。26歳でのプロ入りは当時ドラフト入団最年長記録。プロに入るとは思わず、直前に岐阜でマイホームを購入。当初は新幹線“通勤”で練習に参加していた
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 【中日8-3大洋】日曜日のデーゲーム。十中八九、大洋が勝つはずだった。9回2死一、二塁。中日の2番高木守道二塁手の打球は力のない遊ゴロ。山下大輔遊撃手が前進して捕球すると二塁へ送球。これが運命の逆転の始まりだった。
 送球はややそれて野選に。満塁となった。大洋のリードは1点。完投勝利目前の渡辺秀武投手だったが、迎えた打者はこの日猛打賞の谷沢健一右翼手。あと1人という大洋・秋山登監督の温情が裏目に出て、谷沢が右前へ逆転適時打を放った。こうなると止まらない。結局6点を奪った中日が、最後は守護神・鈴木孝政投手が10球で大洋打線を料理し、2日続けて9回の大逆転勝利となった。

 完全に負けていた試合を2日続けて拾った中日・与那嶺要監督は上機嫌。それもそのはず逆転への伏線を演出したのは自分という自負があったからだ。「彼が投げれば逆転するかもって予感したね」と笑顔の指揮官。彼とは75年のドラフト4位、ルーキー早川実投手のことだ。
 西濃運輸から入団した、26歳の妻子持ちの右腕は前日10日の大洋3回戦の8回にプロ初登板を果たしたが、投手の平松政次に本塁打を浴びて2点差にリードを広げられた。「これで2軍行きかな…」とベンチ裏で落ち込んでいると、味方の打線の爆発と大洋の拙い守備で10-8と逆転。鈴木孝が締めて、幸運にも早川に初登板初勝利が転がり込んだ。
 「本当ですか、本当ですか。僕が勝利投手なんですか」と誰構わず尋ね回った早川。この年プロ入りした投手の中でトップを切って白星が付いたことに興奮。「点を取られて申し訳ないと思っていたのに…。次は抑えます」と笑顔が戻った。
 そして翌日。早川は前日と同じ1点ビハインドの8回に登板を命じられた。1度肩を作っていたが、「きょうは(登板が)なさそうだ」と近藤貞雄投手コーチに言われ、ブルペンでのんびりしていた時に急に声がかかった、三沢淳投手に代わるスクランブル登板だった。
 早川の登板は与那嶺監督の思いつきだった。「1点差で大洋の当たっているクリンアップでしょ。もう点はやりたくなかった。三沢の球筋は大洋の選手もよく知っているから、未知の早川の方がいいと思った。それに前日におなじような試合展開で逆転のツキをもたらしてくれたからね」。
 ストレートよりもスライダーやチェンジアップの変化球で勝負する早川は、大洋の4番松原誠一塁手にはヒットを打たれたが、3番長崎慶一左翼手、5番ジョン・シピン二塁手を打ち取り役目を果たした。与那嶺監督の感は的中し、連日の逆転劇。今度も勝利投手は早川だった。
 1勝目が19球、2勝目が13球。計32球で連日の白星となった早川は信じられないといった表情。気持ちを落ち着けるために、コップの水を飲み干してから言った。「おなかがすいていて自然に球が落ちたのが良かったのかな。でも、こんなに続けて勝ってほかのピッチャーの方に申し訳ないです」。「よっ、新人王。今年は20勝か」先輩野手に冷やかされながら、早川は順風満帆のプロ野球人生をスタートさせた。
 しかし、早川の名前が新聞の勝利投手の欄に乗ることは2度となかった。ルーキーイヤーは20試合に登板し、2勝1敗1セーブ。6月20日の広島戦を最後に1軍から姿を消した。その後も77年に6試合、78年に2試合と1軍で投げる機会は減少。78年はウエスタンリーグで防御率0・99で最優秀防御率のタイトルを獲得したが、浮上のきっかけにはならず79年に引退した。
 これで中日とは縁が切れたと思いきや、09年現在、早川はチーフスカウトとしてまだドラゴンズに在籍している。打撃投手、広報、投手コーチ、スカウトなど、球団の裏方を中心にさまざまな仕事を歴任。星野仙一監督が就任した87年には監督付きの広報兼コーチ補佐として、監督以上に忙しい日々を過ごした。スカウトとしても手腕をみせ、九州地区担当の時は荒木雅博内野手を担当した。今の中日の若手で早川チーフスカウトを知らない選手はいないが、2日間で2勝が現役でのすべての勝ち星ということを知っている選手はほとんどいない。

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