日めくりプロ野球 4月

【4月28日】2003年(平15) ノーサインで初勝利、レオン監督の“楽しむ野球”のその後

[ 2008年4月19日 06:00 ]

03年10月12日、千葉マリンでのロッテとの最終戦を終え、ファンにあいさつするレオン監督。低迷するチームの救世主にはなることはできなかった
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 【オリックス6-0近鉄】球団史上初の4月中の監督解任、そして球団史上初の外国人監督の起用--。揺れに揺れたオリックスは就任3戦目の近鉄4回戦(ヤフーBB)で打撃コーチだったレオン・リー新監督が初勝利を挙げた。
 試合を決めたのはレオン監督のノーサイン野球だった。2-0とリードの6回、無死一、二塁で打者は8番・塩谷和彦一塁手。三塁コーチャーのブロックサインをみる塩谷だが、サインは何も出ていない。不思議に思ってベンチのレオン監督を見るも、やはり何の素振りもない。前指揮官の石毛宏典監督なら当然バントのサインが出たはずだが…と戸惑いながら打席に入った。
 バントは苦手だった塩谷。失敗しては石毛前監督によく叱責された。バントをしなくてもいいなら…。塩谷は「右に打って走者を進めよう」と考え、そうすることで気が楽になった。
 進塁打を打つつもりで内角の真っ直ぐを右におっつけた打球は、一、二塁間をやぶる右前打。これで二塁走者の副島孔太右翼手が生還し、3点目。これで勢いづいたオリックスはさらに3点を追加し、試合を決めた。
 塩谷の打席についてレオン監督は「個人の判断に任せた。やらされる野球より、今のブルーウェーブに大切なのはエンジョイ・ベースボールさ」。ロッテ、大洋、ヤクルトでの10年間の現役時代から陽気で小さいことにこだわらない性格そのままの野球で沈滞ムードのチームに刺激を与えた新監督の放任“采配”でオリックスは近鉄を3タテ。遅まきながらチームの士気は上がった。
 しかし、奇策はあくまで奇策。そう長くも続かず、オリックスは5月に5連敗と6連敗を記録。以後も最大8連敗をはじめ、黒星続きとなり、2年連続最下位。前年の借金37を上回る40となり、球団ワースト記録を更新してしまった。チーム打率、本塁打がリーグ2位にもかかわらず、得点が5位という無駄な攻めと、防御率5・95という記録的な数字では上位は望めなかった。
 チームのムードを変えたレオン監督は惨憺たる結果にもかかわらず、留任の線が濃かった。しかし、球団は10月7日、解任を通告。それと同時に1軍打撃コーチ就任を要請した。1軍の将が首を切られ、現場に残るケースは77年に大洋で秋山登監督が別当薫新監督就任に伴い、2軍監督になったような例があるにはあるが、極めてまれなケース。球団は「伊原春樹新監督の要請というより、フロントの考え」と説明した。
 そこまでレオンにこだわった本当の理由は何だったのか。オリックスはレオンというよりも、息子の大リーガー、デレク・リー一塁手の獲得を狙っていたからにほかならない。当時フロリダ・マーリンズの主砲だったデレクの魅力は能力だけでなく、スター不在のオリックスにとって客の呼べるプレーヤーとして計算が働いたようだ。
 レオンからすればとても失礼な話だが、レオンは打撃コーチへの“出戻り”を引き受けた。お人良しにも程があるとまで周囲には言われたが、日本での現役を終え米国へ帰国した際に、なかなか職が決まらず苦労した経験があったため、大好きな日本で働けるならと降格人事をのんだという。
 結果的にレオンは翌04年、メッツ傘下の1Aの監督就任を要請され、オリックスを退団。打撃コーチとして再度手腕を振るうことはなかったが、同年4月に魔が差したのか、ホテルで下半身を露出したとされて警察に逮捕され、監督を辞任した。
 カブスに移籍したデレクは07年まで通算1382安打、244本塁打とメジャーを代表する選手としてして活躍中だが、父親のレオンの正確な消息は分かっていない。

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