日めくりプロ野球 4月

【4月27日】1975年(昭50) 闘将ルーツ退場!指揮権放棄も赤ヘル軍団に残した闘争心

[ 2008年4月13日 06:00 ]

75年4月30日、退団会見を行ったルーツ(右)は志半ばで広島を去る寂しさを隠せなかった。左は事情を説明する重松代表
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 【阪神0-0広島】身長1メートル86、体重102キロの“大グマ”はホームベースに仁王立ちしたまま、一歩も動かなかった。5分、10分、15分…既に審判への暴行で退場を宣告されていた背番号70は腕組みをしたまま微動だにしない。
 「いい加減にするんだ!」。通訳を介してベンチに下がるように“命令”したスーツ姿の男がグラウンドに現れると、これまでの抵抗がうそだったように静かにホームベースを離れ、無言でダッグアウトの奥に引っ込んだ。そして試合終了後、“大グマ”は選手全員を集めてこう言った。「私の仕事は終わった。もうここに戻ってくることはない。次の監督を探しておくように」。突然の退団宣告に、選手もコーチ陣もあっけにとられるばかりで、止めることもできなかった。
 甲子園球場での阪神-広島2回戦8回裏二死一、三塁。広島・佐伯和司投手が阪神・掛布雅之三塁手に投げた6球目の外角高めのストレートを、松下充男球審は「ボール」と判定した。血相を変えてベンチを飛び出したのは、“大グマ”こと広島のジョー・ルーツ監督。両手を後ろに組みながら英語でまくしたて、球審に猛抗議した。
 一度は収まった騒動も、ルーツ監督と竹元勝雄一塁塁審が言い合いとなり再燃。竹元塁審がルーツ監督の胸を突いたような形になると、ルーツは激高。左ヒジで押し返したが、これを竹元塁審は暴行と判断し退場を宣告した。
 納得のいかないルーツはホームベースに立ちなおも抗議。審判団は事態の収拾をネット裏で観戦していた、広島・重松良典球団代表に依頼。重松代表がグラウンドでルーツを説得すると、ルーツは引っ込んだが「グラウンドでチームの全権を掌握している監督にフロントが口出しした」ことに納得がいかないと、ダブルヘッダー第2試合が始まる前に、指揮権を放棄し、二度とナインの前に姿を見せなかった。日本初のメジャー出身外国人監督は開幕15試合6勝8敗1分、5位の成績で辞任した。
 自分の職権を犯されたことをルーツのプライドがどうしても許さなかった。球団の慰留にもかかわらず、ルーツは5月3日に帰国。広島は守備走塁コーチだった巨人・長嶋茂雄監督と同い年の39歳、古葉竹識を監督に昇格させた。
 ルーツが掲げた“闘争心”と“走る野球”を継承した古葉監督の下、広島はこの年、球団創設26年目にして初優勝を遂げた。ゴタゴタのチームを掌握した、古葉監督の手腕は評価されるが、その原点は就任わずか6カ月で広島の“ぬるま湯”体質改善したルーツの過激なチーム改革だった。
 74年に森永勝也監督が指揮を執った広島は3年連続の最下位。打撃コーチを務めていたのがルーツだった。72年、広島がアリゾナでキャンプを張った際、大リーグインディアンスのヘッドコーチをしていたルーツの見識と情熱に松田耕平オーナーがほれ込み、入閣させていた。森永監督辞任で自らも身を引くつもりだったルーツだが、監督就任の打診に1つの条件を出した。「私にチーム編成、フィールドにおける全権を任せるなら、カープを率いて全力で戦う」。
 ルーツの動きは素早かった。まず、17人の選手を解雇、トレードで放出し、トレードによって10人の選手を獲得。大幅な血の入れ替えを断行した。さらに大リーガーのゲール・ホプキンス一塁手のスカウトに成功すると、チームの看板選手だった衣笠祥雄内野手を三塁にコンバートし、主力選手心身ともに刺激した。
 ルーツは野球をする環境の改革にも手をつけた。「選手にプロとしてのプライドを持たせる」という方針で、移動の新幹線、特急電車はすべてグリーン車にし、選手個々が持参していた野球用具はすべてトラック輸送などに切り替えさせた。
 エースの外木場義郎投手には「3日に1度、年40試合に先発してもらう。リリーフなし。その代わり20勝してほしい」と具体的な目標数値を示し、投手陣のローテーションをきっちり確立。登板から逆算した調整法で練習スケジュールを組んだ。勝ち試合にはエースをつぎ込む、というのが常識だった当時のプロ野球にとっては革命的な起用法だった。
 最も画期的だったのが帽子とユニホームの色を変えたことだった。これまでの紺色ベースから、「燃える闘争心、戦いの色」を表す赤を全面的に採用。「恥ずかしくてそんな帽子かぶれるか」。衣笠らは反発したが、古い紺の帽子をかぶってグラウンドに出ると、烈火のごとく怒りを爆発させた。
 さらに練習、試合での怠慢プレー、特に消極的な走塁、向かっていく姿勢のない投手には容赦なく罰金を課した。「それまで最高でも1万円程度だったが、ルーツは7~8万、いや10万円くらい取った」と、コーチとして仕えた古葉監督は振り返っている。ワンマンに見えたルーツのやり方だったが、おとなしく闘争心に欠けたチームにこの荒療治はてき面だった。
 三塁にコンバートされたことで「一塁よりハードなポジションの三塁を経験したことで選手寿命が逆に延びた。でないと(2215試合連続出場の)記録は達成できなかった」という衣笠は、「過去の監督が築いてきた基礎を最後にまとめたのが古葉さん。その隠し味がルーツがチームに振りまいたスパイスだった」と、初優勝の本質を分析している。
 「闘争心を忘れなければ、このチームは必ず勝てるようになる」。そう言い続け潔く離日したルーツだが、本心は悔しさでいっぱいだった。帰国の飛行機の中では無念の涙に暮れていたという。
 退団から半年、優勝したカープの晴れの舞台である日本シリーズを観戦にルーツは再来日した。「私の理想のチームになった。何も言うことはない」とルーツは感慨深げだった。球界のお荷物といわれた広島はその後、昭和50年代日本一を3度経験。パ・リーグの西武と並び、80年代最強チームとなった。ルーツが残したファイティングスピリッツは、長く“広島時代”を支える礎となった。

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