日めくりプロ野球 4月

【4月25日】1997年(平9) 苦節13年、打撃投手出身の横浜・西にプロ初勝利

[ 2008年4月13日 06:00 ]

初勝利に向かって力投する西。98年横浜38年ぶり優勝の際は、大差のついた試合に、敗戦処理にと地味ながらチームに貢献した
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 【横浜7-6中日】5点差をはねのけて勝利を収めたベイスターズのヒーローインタビューは、サヨナラのきっかけとなる三塁打を放った石井琢朗遊撃手と試合を決めた犠飛を打ち上げた井上純外野手だった。
 一方で沸き上がるハマスタの横浜ファンに顔を見せなかった、背番号67の投手は13シーズン待ちわびたこの日の感激をベンチ裏で静かにかみしめていた。9回、同点の場面で横浜の5番手としてマウンドに上がった西清孝投手はチームのサヨナラ勝ちで今シーズン1勝目であり、プロ初の白星を手にした。13年目での初勝利はプロ野球記録だった。
 「僕は打たれたら終わり。いつもクビになる危機感があった。でも、こんな形で勝てるなんて、一生懸命やってきてよかった」。初めて試合後に報道陣に囲まれ、言葉を一つずつ選ぶように話した。31歳の淡々とした口調が1勝の重みを物語っていた。
 85年、南海にテスト入団。兵庫・東灘高ではエースだったが全国的には無名の一投手だったが、プロへの憧れは強かった。卒業を控え、地元関西の阪神、阪急、南海のテストを受けた。いずれも1次試験は突破したが、阪神、阪急は2次で不合格。南海も当落線上だった。「カーブがいい。ファームで鍛えれば使える」。強く推薦してくれたのは、往年の南海の主戦投手、中原宏2軍投手コーチだった。
 87年、オープン戦で好投し1軍入りしたが、公式戦では2試合投げたのみ。翌年には練習生扱いとなった。どん底から這い上がり、福岡ダイエーにチームも変わった90年、ウエスタンリーグで開幕から2カ月で8勝するも6月に広島にトレード。ファームで11勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得したが1軍での勝ち星は遠かった。
 右ひざを2度手術したのも芽が出ない一因だった。「いつもこれからという時に悪いことが起きる」と西は自らの運命を呪った時もあった。93年、広島を解雇。テストで横浜を受け合格したが、採用は打撃投手として。「ひざの状態が良くなれば選手登録を考える」という条件だった。
 打撃投手は打者の打ちやすい球を投げるのが商売だ。しかし、人生をかけ復帰を目指す男は平然と内角の厳しいコースを突き、変化球を交えて主力打者に“真剣勝負”を挑んだ。ボビー・ローズ二塁手、石井琢、大リーグ・レッズで4番に座ったこともあるグレン・ブラッグス一塁手のバットをよくへし折った。西の心意気にレギュラー選手も快く真剣勝負を受けて立った。打撃投手にプロとしての生き残りを懸けていた西の現役復帰を近藤昭仁監督が認めたのは1年後。負けん気の強さを買ってのものだった。
 「敗戦処理がいない」。97年、大矢明彦監督になった横浜で西が1軍昇格を果たしたのはそんな理由からだった。しかし、背番号67には負け試合だろうと何だろうと関係ない。試合展開にかかわらずインコースを攻め、得意のカーブ、スライダーをコーナーに決めた。
 この日4試合目の登板は1点もやれない同点の9回での起用だった。敗戦処理から戦力として認められた証だった。
 真っ先に握手を求めたのは、横浜史上最強助っ人ローズだった。自分より10歳も若い選手が高級外車で球場入りする中、年俸900万円の西は5キロ離れた自宅から自転車通勤。スクーターで球場入りしていた、ローズとともに駐車場ではなく、駐輪場であいさつを交わすのが日課となっていた。“チャリ友”がスポットライトを初めて浴びた日に、我がことのようにチームの主砲ははしゃいだ。
 西が2勝目をマークしたのは同年8月24日、夏休み最後の横浜でのゲームとなった巨人22回戦だった。一死満塁のピンチを切り抜け、自軍のサヨナラ勝ちを呼び込んでのものだった。
 「打撃投手をしていたことを思えば、夢のような舞台で投げている。1軍でプレーしているだけで幸せ」。土壇場の場面を楽しむかのような圧巻の19球だった。
 翌98年、横浜38年ぶりの優勝にも貢献した。敗戦処理に、大差のついた試合に大魔神・佐々木主浩投手を休ませるためにと、黙々と投げ続けた。
 99年限りで引退。2度目の打撃投手を務めた。「また復帰?もうないよ。一生懸命やったから」。通算125試合2勝5敗の投手はすがすがしく裏方に徹した。

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