日めくりプロ野球 4月

【4月23日】1988年(昭63) 名物オーナー死去「オレの目の黒いうちはホークスは売らん」

[ 2008年4月13日 06:00 ]

85年の南海新人選手入団発表の席上、両手でルーキーの手を握る川勝オーナー。右から3人目がドラフト1位だった法大・西川佳明投手。左から2人目に広島で活躍した西山秀二捕手の顔が見える
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 【南海9-1ロッテ】仙台宮城球場(08年、Kスタ宮城)でのロッテ-南海3回戦は、最下位にあえぐ南海が開幕10試合目にして3本のアーチなどでチーム最多得点の9点をを奪い、投げては山内和宏投手が完投でシーズン1勝目を挙げる完璧な試合内容だった。
 「オーナーのホークスを思う気持ちがホームランになったんですよ。だって風向きがあの時だけ変わったんだから」。先頭打者本塁打を放った佐々木誠中堅手は真顔で言った。
 打球を追った高沢秀昭右翼手も“風”を感じていた。「外からインフィールドに入ってきた。あれが入るなんて…。それまでは左からの風だったのに、あの一瞬だけ右に変わったんだ」。
 オーナーが打たせてくれた本塁打と佐々木は言い切った。南海のオーナー、川勝傳(かわかつ・でん)氏が脳こうそくのため、86歳の生涯を閉じたのは、佐々木の一撃が出る約7時間前のことだった。
 「オレの目の黒いうちはホークスは売らん」。厳しい観客動員数、大阪なんば地区の再開発問題の真っ只中にありながら、これが川勝の口癖だった。元は共同通信社の前身である日本電報通信社の記者。南海とのかかわりは戦後の47年(昭22)で監査役、非常勤取締役に就任したのがきっかけだった。
 68年、南海電気鉄道の社長に就任すると同時にホークスのオーナーも兼ねた。当時南海は黄金時代を築いた鶴岡一人監督が勇退し、チームは人気、実力とも下降線。明治生まれの頑固さと、逆風の中でも、思ったことをストレートに言う“関西財界の大久保彦左衛門”は南海だけでなく、パ・リーグ活性化に積極的な提言をした。
 その最たるものがパの前後期2シーズン制と指名打者(DH)制だった。前後期制は2回優勝のチャンスと最後の決戦(プレーオフ)によって、ファンが盛り上がる機会を増やすことが大きな狙いで、川勝の画期的な意見には他のオーナも賛同した。
 73年、初めて前後期制を取り入れたパ・リーグの観客動員数は初めて400万人台を突破。その前の2年間が250万人台だったことを考えると、劇的な伸び率を記録した。奇しくも新制度を利用し、プレーオフで後期優勝の阪急を破って日本シリーズへの出場権を得たのは、川勝率いる南海だった。
 他の財界トップが運転手付きの高級車で出勤する中で、川勝オーナーはよほどのことがない限り毎朝、朝のラッシュで超満員の南海電車で出社。「お客様の気持ちが分からなければ経営はできない」が口癖で、それは球団経営の姿勢にも表れていた。大阪球場に足しげく通っては選手を激励。オーナー室で観戦せず、自らスタンドに座ってファンとともにホークスを見守った。不甲斐ない戦いが続いた80年代の南海に、酒に酔ったファンがオーナーにからむこともあったが、そんな時も真剣に耳を傾けていた姿を多くの関係者が目撃している。
 南海は73年の優勝後、Aクラスに入るのがやっとで観客数は年々減少。さらに可愛がってきた野村克也監督兼任捕手を公私混同が激しいとして断腸の思いで解任。時を同じくしてホークスは万年Bクラスにチームにまで戦力が落ち、球団売却の話が常に付いて回った。
 南海本社の代表取締役は降りても、球団を守るためのオーナー職にはとどまった川勝。「ホークスは手放さん」の言葉通り、生前は維持できた球団だが、その死後の動きは速かった。1カ月後、新オーナーに吉村茂夫南海電鉄社長が就任。経理畑出身の吉村オーナーがまず最初に手をつけたのがホークス売却だった。当初、川崎で球団経営に苦心していたロッテ球団の買収を考えていた、ダイエーに話を持っていき、9月に話がまとまるとこれを売った。
 川勝が愛したホークスが創立50周年を迎えたこの年、南海ホークスは福岡ダイエーホークスに代わり、住み慣れた大阪を離れた。南海という名前がプロ野球界から消えて、今年で20年。南海のユニホームを着てプレーをした経験がある現役選手は、巨人・大道典嘉外野手のみになってしまった。
 08年6月のセパ交流戦でソフトバンクは旧南海のユニホームを1試合限定で着用し、阪神と対戦する。64年(昭39)の日本シリーズでの顔合わせが“再現”される日を空の上から川勝オーナーも心待ちにしているに違いない。

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