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【4月13日】1969年(昭44) 世界初の代走屋・飯島秀雄 デビュー戦で初盗塁

シーズン88盗塁の大きすぎる期待が寄せられた飯島。話題性で観客動員倍増には貢献したが、プロの世界は甘くはなかった
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 【ロッテ4-3南海】いつもは「客席が野球を見ている」とからかわれた1試合平均観衆5000人の東京スタジアムに2万人が集まった。それも新人選手の1回だけの登場が目当てというのだから、商品価値はべらぼうに高かった。
 ロッテ-南海2回戦、9回裏無死一塁。観客が待ちに待った男がロッテ・濃人渉監督に呼ばれ代走に起用された。背番号88・飯島秀雄外野手。東京、メキシコ五輪の陸上100メートル日本代表。10・1秒の日本記録保持者は、永田雅一オーナーの「世界初の代走専門選手」として入団。この日が公式戦デビューとなった。
 背番号88は当時年間盗塁数の日本記録だった、56年(昭31)に阪急・河野旭輝外野手がマークした85盗塁を抜くようにとの、永田オーナーの“指令”で決まった。オレンジ色の手袋も巨人の盗塁王、柴田勲外野手に抵抗してはめたものだった。
 「行けると思ったらいつでも行け」。濃人監督は野球素人の飯島に大胆な指示を与えた。サインプレーを要求するより、飯島自慢の「ロケットスタート」を生かすために、タイミングは自分で計らせた。
 南海・合田栄蔵投手は1球けん制を入れた。「いくらなんでも初球から走らんだろう」。野村克也捕手はそう読んだ。が、飯島は走った。というより、走ってしまったというほうが正確だろう。
 打者・広瀬宰遊撃手は初球バントの構えをみせたが、バットを引いた。南海守備陣をかく乱する意図だったが、飯島の足はすでに二塁に向いていた。「バットを引いたので止まろうと思ったが、足がいうことを聞かない。スタートを切ったら止まらなくなった」。陸上選手の性。一度スタートすればストップはあり得なかった。
 慌てたのは南海だ。スプリンターの足をもってしても、盗塁のタイミングは難しい。スタートはよくなかった。しかし、予想しなかった飯島の“単独スチール”にブレイザー二塁手も藤原満遊撃手もベースに入るのが遅れ、野村も一瞬送球をためらった。野村は送球したものの、藤原は捕球できず、球はセンターまで達した。それを見ると、飯島は二塁に滑り込まず一気に三塁へ走り、豪快なヘッドスライディング。大拍手の観客、ゴンドラ席の永田オーナーは大笑い。結果オーライのデビュー戦初盗塁でロッテは無死三塁のチャンスを迎えた。
 一死後、代打の井石礼司外野手が左翼へ大飛球を打ち上げた。往年の俊足外野手、与那嶺要コーチに習ったとおり、タッチアップの構え。打球は見ず、コーチの声だけを頼りに「ゴー」の指示を待った。打球が左翼の頭を越えると、与那嶺コーチの声がかかった。悠々ホームインのサヨナラヒットにも全速力でホームを駆け抜けた。
 ヒーローインタビューはサヨナラ打の井石ではなく、代走の飯島。「最高の場面で使ってもらって初盗塁ができ、チームもサヨナラ勝ちした。うれしくて体がムズムズしてきた。いつでも走れるようにもっと練習したい」。飯島人気はこれで決定的になった。東京スタジアムでの観客動員は前年比倍増の1万人に。飯島の足は他球団も警戒し、その分打者への集中力がそがれた。飯島が代走に送られた後のロッテの打者の打率は4割2分を超え、その効果は十分に戦力となった。
 中学時代は野球部員だった。しかし、野球よりもその俊足が陸上関係者の目に留まり、東京・目黒高では陸上部に入った。五輪後、茨城県庁に勤務。しかし、「足を生かして生活できないか」と考えていたところ、知人の運動具店店主が“親分”こと大沢啓二ロッテ2軍監督の実兄で中日などで活躍した、国学院大の大沢伸夫監督に話をした。当初、伸夫監督はまず大洋に話を持っていったが興味を示さず、弟の啓二監督へつないだところ、永田オーナーが「オリオンズの名物にする」と入団を認め、68年にドラフト9位で入団。契約金は720万円、年俸180万円だった。
 デビュー戦を幸運な形で終え、88盗塁を目指した飯島だったが、プロは甘くない。1年目は10盗塁、2年目も12盗塁。盗塁死は69年8個、70年9個と増えていった。 70年、優勝したロッテは日本シリーズで巨人と対戦した。飯島は3試合に代走で起用され2得点したが、忘れられない苦い思い出がある。11月1日、東京スタジアムでの第4戦の7回一死一、三塁で一塁走者の飯島は、巨人・王貞治一塁手に声をかけられた。
 「飯島君、お客さんは君の盗塁に期待している。けん制はないよ」。驚いた飯島は一瞬王の顔を見た。その瞬間、山内新一投手から矢のようなけん制球が来た。ベースに一歩も戻れなかった。ロッテはこの試合6-5で勝ち、シリーズ唯一の白星となったが飯島は全く喜べなかった。
 71年は出場機会が激減。わずか1盗塁に終わり、オフに戦力外通告。117試合に出場し、46得点もマークした外野手は、1軍の公式戦で一度も打席に立つこともなく、一度も守備につくこともなく、3年でユニホームを脱いだ。唯一打席に立ったのは、71年のイースタンリーグでのヤクルト戦。松村憲章投手の前に3球三振を喫した。「打席に立って経験した方が盗塁の勉強にもなる」。崖っぷちに立たされていた飯島に、大沢二軍監督がみせた精一杯の親心だった。
 「引退後はコーチで」という永田オーナーとの約束どおり、ランニングコーチとなったが、その永田が本業の映画で多額の負債を抱え、球団経営から身を引き、完全にロッテが球団運営に乗り出すと、飯島との契約更新を結ぶ考えのないことを伝えた。
 球界から身を引いた飯島は不動産会社に就職も倒産し、今度は郷里で運動具店を経営。
足が売り物のプロ野球選手は何人もいるが、飯島以降、野手として100試合以上出場しながら守備でも、打席でも記録がない選手はいない。

[ 2008年4月7日 06:00 ]

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