日めくりプロ野球 3月

【3月30日】1972年(昭47) 釣り竿担いで来日した、大洋の新助っ人“ライオン丸”

[ 2011年3月30日 06:00 ]

 開幕まで2週間足らず。1月に入団が決まっていたにもかかわらず、大洋(現横浜)期待の新外国人、ジョン・シピン内野手の来日はとても慌しかった。

 理由は新妻の猛反対。来日前に実家が資産家の女性と結婚したシピン。ところが妻は「日本なんて知らない国には行きたくない。行くのなら離婚する」と泣きわめいたという。 「キャンプには間に合う」「オープン戦が始まる頃には…」と時期が伸び伸びになり、ようやく話がついたのは3月も半ば。妻は気が向いたときに来日する、そのために球団が広めのマンションを東京・広尾に用意するということでようやく折り合いがついた。

 日本に降り立ったシピンだが、肩に担いできたのはバットではなく、なんと釣り竿。木彫り、ジャズ鑑賞、一眼レフでの写真撮影など、多彩な趣味を持つが、中でも釣りはその筆頭。記者に釣り竿持参の意味を問われると、「休みにトローリングでもしようと思って」とうれしそうに答えた。後に“ライオン丸”と呼ばれるようになった跳ね上がった長い髪にヒゲ面ではなく、きちんと調髪した精悍な顔つきはプロ野球選手というより、モデルのようだった。

 トローリングをする暇もなく、シピンは時差ボケの中でいきなり力試しをすることになった。「まだバッティングもやってないし、ベストに持っていくには時間が欲しい」というシピンだったが、翌31日、見学のつもりで訪れた川崎球場での南海とのオープン戦に早くも登場。球団はいつでも出場できるよう、背番号11のユニホームを用意して待っていた。

 7回、代打で出場。ホークスのエース江本孟紀投手のスライダーにタイミングは全く合わず三振に終わった。何も練習せず、いきなりぶっつけ本番の起用だったが、別当薫監督は「でもいいスイングをしている。楽しみ」と大きな期待を寄せた。

 元々、大洋が狙っていた選手ではなかった。マークしていたメジャーの外野手が契約に至らず、思案していたところを72年からホエールズ入りすることが決まっていた元ヤンキースの正三塁手、クリート・ボイヤーの推薦があった。ボイヤーは71年、大リーグからマイナーのハワイ・アイランダースへ移り、そこで同僚だったシピンの25歳という若さとライナー性の打球で外野の頭を越すバッティングに注目していた。

 フィリピン系米国人でカリフォルニアで育ちながらヤンキースファン。大リーグ在籍はパドレスにいた69年のみで68試合229打数51安打2本塁打、打点9、打率2割2分9厘。大洋首脳陣は「2割6分も打てれば。来年また新外国人を探そう」と急場しのぎで獲得した。

ところが、である。別当監督の見立てどおり、シピンは1年目から日本の野球に順応した。重さ約910グラムの軽量バットを使用し、速球には滅法強く、両足をそろえた直立不動の姿勢から、左足を踏み込み、極端なダウンスイングで放つ打球は、“弾丸ライナー”の形容詞がピッタリ。巨人の内野陣が「打球が速すぎて捕球するのが怖い」とさえ言った。大洋在籍の6年間で3割台が3回に2割9分5厘が2回。本塁打も年平均28本と申し分ない優良助っ人だった。

 ライオン丸と呼ばれた、長髪とひげについてシピンは「ヒットが多く出るようになると、相手投手の内角攻めが厳しくなった。それで、投手を怖がらせるためにヒゲを伸ばし、髪をなびかせた」としている。

 一方で、別名“アイアン・グラブ”。フィルディングでは時に致命的な失策をしたが、ただスローイングは一級品。強烈なスナップスローに「ジョンの送球は捕りたくない。捕球の後にシビれる」と、大洋・松原誠一塁手は悲鳴を上げた。“自衛隊”と呼ばれた守備のスペシャリスト、米田慶三郎遊撃手、後継の山下大輔との間で繰り広げられた併殺プレーはまさに芸術品で、大洋のダブルプレー数は倍増。ヘルメットをかぶって二塁を守るシピンの姿は少年ファンに大人気で、草野球ではそれを真似る子どもが続出した。

 しかし、お目付け役のボイヤーの言葉以外は耳を貸さず、振る舞いも横暴だったことと、来日以来大洋は1度もAクラスがない中でのチーム最高年俸(77年当時、12万ドル=約3000万円)だったことへのやっかみなどもあって、78年開幕直前の3月20日、獲得を熱望した巨人・長嶋茂雄監督もとへ1000万円で金銭トレードされた。

 すると、多くの外国人選手がそうだったように、シピンもその見た目を180度変えた。トレードマークのひげをそり落とし、長髪もバッサリ。本人曰く「ガールフレンドの希望でこうした」。かつて「ナギー」と呼んでいた長嶋茂雄監督に「イエス・サー」と服従し「ミスター・ナガシマを胴上げするのが夢」と優等生の回答で周囲を驚かせた。

 しかし、性格までは変わらず移籍初年に2度の大立ち回りを演じ、退場処分に。成績も年々下降し、大洋時代のような弾丸ライナーの打球は影を潜めた。81年まで契約していたが、持病の腰痛の悪化と巨人の若手育成の方針から1000万円の“功労金”で円満退団。帰米後、バッティングセンター経営などを経て、不動産業に進出し財をなした。その後も日米OBドリームゲームなど親善試合で度々来日している。 (08年3月30日掲載分再録)

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